足の裏
蘭郁二郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)傍道《わきみち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二三年|間《ま》のある

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]切った
−−

      一

 さて、私がいまお話ししようというお話の主人公は、景岡秀三郎――という景岡浴場の主人なのですが、その人の色々変ったお話と、それに関連して探偵小説的な一つのトリックといったようなものを御紹介しようと思うのです。
 浴場の主人――などというと如何にも年輩の、シッカリした男を連想しますけど、景岡は私立大学を出たばかりの、まだ三十には二三年|間《ま》のある青年でした。大学を出たばかりの青年がお湯屋の主人なんて――、誠に不釣合な話です。だが彼の奇癖が、こんな商売をやらせたのです。
 一体、景岡秀三郎という青年は……チョット傍道《わきみち》になりますけれど……少年の時から、極く内気な性質《たち》でした。そうした少年にありがちな傾向として、彼も矢張り、小学校という社会に投込まれた時に、どんなに驚ろいた事でしょう。元気よく馳け廻る大勢の友人を、寧ろ、驚異の眼で見とれ乍《なが》ら、校舎の蔭にポツンと独《ひと》り、影法師のような秀三郎でした。――そのくせ、夢みるような瞳は、飽くなき巨大な幻想を疑視《みつ》めていたのです。
 この風変りな少年、景岡秀三郎の、最も恐れたのは、時々行われる体格検査でした。大きな講堂の中で、ピチピチした裸体の群像の中に青白い弱々しい体を曝《さら》すという事は、消入《きえい》るように苦しかったのです。
(痩っぽちだなァ……)
 侮蔑にみちた言葉が、裸になって、はしゃぎ[#「はしゃぎ」に傍点]切った少年達の、何んでもない会話からさえ、浮び出して来るのでした。
 その上、景岡秀三郎は、少年としては珍しく、毛深《けぶ》かかったのです。腕や脚には、もう生《は》え際《ぎわ》の金色な毳毛《うぶげ》が、霞のように、生えていたのです。
 秀三郎は、友達の浅黒い、艶々《つやつや》した肌を見る度に、自分の毛深かさに対して、子供心にも、激しい嫌悪を感ずるのでした。
『おや! すごい[#「すごい」に傍点]毛だね……』
 体格検査の時など、そんなことをいい乍ら、友達が、珍らしそうに近寄って来ると、秀三郎は、ギクンと咽喉《のど》につかえた心臓を、一生懸命に、肩をすぼめ[#「すぼめ」に傍点]て押え乍ら、もう眼は泪《なみだ》ぐんで仕舞《しま》うのでした。
 こんな自然の悪戯《いたずら》は、秀三郎を、尚内気にして仕舞うと同時に、露出嫌悪症――裸体嫌悪症――という変窟沼の中に投げ落し、そして、それは年と共に、いよいよ激しくなって、自分自身の体でありながら毛むくじゃら[#「むくじゃら」に傍点]な腕や胸を見ると、ゾッと虫酸《むしず》が走るのを、どうすることも出来ませんでした。
 ――そのくせ、というより、寧ろその反動として、白い滑《なめ》らかな、朝霧を含んだ絹のような、はり切った皮膚を見る度に、彼は頬を摺りつけ、舐めてみたり、或は、そっと[#「そっと」に傍点]噛んでみたいような、激しい憧れを感ずるのです。
 煙のように、淡く飛び去った幼ない思い出の中に、今でも網膜に焼付けられた、一つの絵があります。――それは小学校の校庭でした。
 女生徒の体操の時間で、肋木《ろくぼく》につかまった生徒達が、教師の号令で、跼《かが》んだり起きたりしています。二階の窓ぎわにいた景岡秀三郎が、フト、その一|群《むれ》に、眼をやった時でした。
 音もない風が、梢から転び落ちると、恰度《ちょうど》跼み込んだ女生徒のスカートを、ひらりと[#「ひらりと」に傍点]反《かえ》したのです。ハッとした秀三郎は、僅かの間でしたが、眼頭《めがしら》の熱くなるのを感じました。
 今、こうして瞼を閉じても、その搗《つ》きたてのお餅のようなふっくり[#「ふっくり」に傍点]とした太腿へ、真黒なガーターが、力強く喰込んでいるその美しさに、吾れ知らず鼓動が高まるのです。
 長ずるに従って、次第に瞼の裏には、様々な美しい肉体の粋が、あるいはくびれ[#「くびれ」に傍点]、或はすんなり[#「すんなり」に傍点]と伸びて、数を増し、追っても、払っても、なよなよと蠢めき、薄く瞼を閉じるとそれらは、青空一杯に、白い雲となるのでした。
 斯《こ》うした景岡の眼には、自然の草木はなんらの美をも齎らしませんでした。そして肉体の探窮美にのみ、胸を摶《う》たれるのです。
 その美への憧れは、案外急速に実現されました、というのは、景岡が大学を出て間もなく、僅かの間に、続いて両親を亡い、それと同時に、少なからぬ遺産を受継いだからです。
 そして
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング