になったのでした。
 で、一番始めに眼についたのは、矢張り一番近いところにある『足の裏』です。足の裏にもこんなに種類があるものか――、秀三郎はなんの気もなく足の裏を観察し始めて、思わず驚嘆の声を上げたのです。各人各様、とはよくいったもの、馴れるに従って足の裏をみた丈で、いま入浴しているのは誰々――とハッキリいいあてることが出来るほど、夫々《それぞれ》に特徴を持っているのです。
 扁平足のもの、地踏《つちふ》まずのハッキリしているもの、その地踏《つちふ》まずの凹んだところに、痩せた人で腱の出る人、痩せていても腱の出ない人……親指が中指より長い人、短かい人、指の揃っている人、開いている人……
 中でも、これは景岡秀三郎の大発見だと思われるのは『足の指紋』です。これは手の指紋と同様、十本が十本皆同じの人、というのは彼の経験では一人もないのでした。
 凡《おそ》らくこれは大発見、と同時に又、景岡秀三郎の身を危く滅ぼす基《もと》でもあったのです……。
 というのは、その発見をすると、景岡は、もういままでの熱心な観察をフッツリとやめてしまって、うっとりと寝椅子に寝ころんだ儘、しきりに何か考えごとをしていたのです。
 景岡秀三郎は殺人を計画していたのでした。
 実は妙な話ですけどそんな差し迫った殺人の必要もなかったのですけど、……無い事もありませんでした。というのは景岡秀三郎は、こんな廃頽趣味であることからも解るようにとても妙に偏屈なとこがあって、一度斯う――と思いつめたら蛇のように執拗なところがあるのですが、その気持が、この素晴らしいトリックを思いつくと同時に、急に燃え上って来たのでした。
 美しき従妹ハトコの父石崎源三を殺そうというのです。理由は――誠に簡単な事なのですが、いまいったような景岡の性質では、充分殺人に値していたかも知れません。秀三郎はハトコを愛し、そして、美しきハトコも彼を愛してくれる……というのに彼女の父石崎源三が景岡の奇矯な行動からおいそれと許してくれない。という理由なのですが――。だが秀三郎はもうタマラナクなってしまったのです。
 殺人の現場に一口の短刀が遺棄されている、見るとそれにはアリアリと、指紋が残っているので被疑者は一人残らず指紋をとられる、勿論石崎源三の家に屡々《しばしば》行った景岡の指紋も採られるに違いない――だが――一人として該当者がない……無い筈だ……それは足の指紋だもの。どうだ、実に素晴らしい。
 ナマジ指紋(?)あるが為に、この事件は迷宮入りになって仕舞うに違いない。如何にも面白い――と同時に日本的なトリックだ、外国のように沓下を穿《は》き、靴を穿《は》いていたんではこんなトリックはなかなか現われまい……。
『巨大な指紋を遺《のこ》して犯人蒸発! 推察するに相当大男ならん――』などという新聞紙のセンセイショナルなタイトルまでもう頭の中にちかちかとひらめくのでした。
(面白い、殺《や》ってやれ)
 秀三郎は、喫《す》いかけたタバコをポンと地下室の向うに抛って、薄暗の中にポーッと赤い火の灯《とぼ》るのを見乍ら、卓子に手をついて、ウン、と寝椅子から起き上った時でした。
(アッ――)
 景岡秀三郎は、思わず愕然としたのです。卓子についた手の指を御覧なさい、その指の先は、てんでばらばらで、とても足の指のように揃っていません。ソレニ、一緒に平面上に五本の指の先きを同時に押すことが出来ないのです。四本の指の先きを、どうにか揃えて押すと、親指はハラを押して仕舞う――。バカバカしいようだが、重大なことです、と同時にそれに、いまの今まで気がつかなかった――のです。
 こんなことでは、まだ他《ほか》にどんなミスがあるか、知れないぞ……。
      ×
 景岡秀三郎は、もうすっかり殺人がイヤになって仕舞いました。熱し易い一方、とても冷め易いのです。考えて見れば何もセッパ詰った訳でもなし……こうなると彼のぐずぐずの心は二度と振い立たないのでした。(こんなトリックを思いついたばかりに、却って身を滅ぼすところだった――)
 秀三郎は、又ごろんと寝椅子にころがると、チェリーの缶に手を差しのべたのでした。

      四

 頭の上の浴槽の中には五六人の女たちが、立ったり屈《かが》んだりして、いい気持そうに浴《ゆあみ》しています。横の腰掛けに腰をかけている女のお尻が、お供餅の様に尨大で、よく見ると月世界の表面のように、ポツポツの凹凸があったり……、銅像を下から覗《のぞい》た時のように妙に背丈《せい》の高さの判別がつかなかったり……、時々指環を篏《は》めた手が、腿の辺まで下りて来て、ぼそぼそと泡を立て乍ら掻いたり……。そしてそれらの手の間○○○、○○○を白い手拭がふらふらと、又、ひらひらと、オットセイのように泳ぎ廻るのでした。

前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング