息を止める男
蘭郁二郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)乍《なが》ら

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)こめかみ[#「こめかみ」に傍点]の
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 無くて七癖というように誰れでも癖は持っているものだが、水島の癖は又一風変っていた。それは貴方にお話してもおそらくは信じてくれないだろうと思うがその癖は『息を止める』ということなのである。
 私も始め友人から聞いた時は冗談かと信じなかったが、一日彼の家に遊びに行った時に笑い乍《なが》ら訊いてみると、彼は頗《すこぶ》る真面目でそれを肯定するのである。私も不思議に思ってどうしてそんなことをするのかと聞いてみたが彼は首を振るばかりでなかなか話してくれなかった。
 然《しか》し話してくれないと尚聞き度くなるものであるし、又あまり変なことなので好奇心に馳られた私はどこまでも五月蠅《うるさ》く追窮したので、水島もとうとう笑いながら話してくれた。
『その話はね、誰れでも五月蠅く聞くんだ、その癖皆んな途中で莫迦《ばか》らしいと笑って了《しま》うんだ。それで僕もあまり話したくないんだ。まあ話を聞くよりは自分で一寸《ちょっと》息を止めてみ給え、始めの二三十秒はなんでもないかも知れないが、仕舞いになるとこめかみ[#「こめかみ」に傍点]の辺の脈管の搏動が頭の芯《しん》まで響いて来る。胸の中は空っぽになってわくわくと込み上げる様になる――遂、堪らなくなって、ハアーと大きく息を吸うと胸の中の汚いものがすっかり嘔き出されたようにすがすがしい気持になって、虐げられた心臓は嬉しそうに生れ変ったような新らしい力でドキンドキンと動き出す。
 僕はその胸のわくわくする快感が堪らなく好きなのだ。ハアーと大きく息する時の気持、快よい心臓の響き。僕は是等の快感を味わう為には何物も惜しくないと思っている』
 水島はそう言って、この妙な話を私が真面目に聞いているかどうかを確かめるように私の顔を見てから又話しを続けた。
『しかし、近頃一つ心配な事が起って来たのだ、よく阿片《アヘン》中毒者――イヤそんな例をとらなくてもいい、煙草のみでも酒のみでも――などが始めの中はこんなものが、と思ってそれを続けて行く中には何時しかそれが恍惚の夢を齎すのだ、斯《こ》う習慣になってくると今度はその吸飲量を増さなければ満足しなくなる、馥郁《ふくいく》たる幻を追うことが出来なくなる。それと同じに僕も最初のうちは四五十秒から一分もすると全身がうずうずして言い知れぬ快感に身をもだえたものなのに、それがこの頃は五分になり、十分になり、今では十五分以上も息を止めていても平気なのだ、だけど僕は少しも恐れていない、この素晴らしい快感の為には僕の命位は余りに小さいものだ、それに海女なども矢張り必要上の練習から、随分長く海に潜っていられるということも聞いているからね、海女といえばどうして彼女等はあの戦慄的な業に満足しているのだろうか、僕は矢張あの舟べりにもたれて大きく息する時の快感が潜在的にある為だと思うね』
 水島はそう言って又私の顔を覗くようにして笑った。
 然し私はまだそれが信じられなかった、息を止めてその快感を味う! 私はそれがとてつもない大嘘のように思われたり、本当かも知れないという気もした、その上十五分以上も息を止めて平気だというのだから――
 水島は私の信じられないような様子を見てか、子供にでもいうように、
『君は嘘だと思うんだね、そりゃ誰だってすぐには信じられないだろうさ。嘘か本当か今実験して見様じゃないか』
 私はぼんやりしていたが水島はそんなことにお構いなく、
『さあ、時計でも見てくれ給え』
 斯ういうと彼は椅子に深か深かと腰を掛けなおした。
 彼が斯う無造作にして来ると、私にも又持前の好奇心が動き始めた。
『一寸。今三時三十八分だからもう二分してきっちり四十分からにしよう』
 というと水島は相変らず無造作に『ウン』と軽くいったきり目をつぶっている、斯うなると私の好奇心はもう押えきれなくなって了った。
『よおし、四十分だ』
 私は胸を躍らせながら言った、水島はそれと同時に大きく息を吸い込んで悪戯っ子のように眼をぱちぱちして見せた。
 私は十五分間やっとこらえた、私は不安になって来たのである、耐えられない沈黙と重苦しい雰囲気が部屋一杯に覆いかかっている、墓石のような顔色をした彼の額には青黒い静脈が絛虫《さなだむし》のようにうねって、高くつき出た頬骨の下の青白いくぼみには死の影が浮動している。
 私はこの洞穴のような空虚に堪えられなくなった、そして追い立てられるように椅子から立つと彼に近寄って、恰度《ちょうど》取合せた仁丹の容器に付いている鏡をとり出すとよく検死医がするようにそれを口元に近付けて見
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