た、矢張り鏡は曇らない、彼は完全に呼吸をしてないのだ……私は押しもどされるように椅子に帰って腰を掛けなおした。
 四時。もう二十分も経った。その瞬間不吉な想像が後頭部に激しい痛みを残して通り過ぎた。彼は自殺したのではないかしら、日頃変り者で通っている彼のことだ、自殺するに事を欠いて親しい友人の私の面前で一生に一度の大きな芝居を仕乍《しなが》ら死んで行こうとしているのではないだろうか、死の道程を見詰めている。そんな不吉な幻が私に軽い眩暈《めまい》を感ぜしめた。
 彼の顔は不自然に歪《ゆが》んで来た、歪んだ頬はひきつけたように震えた。私は自分を落付ける為に勢一杯の努力をした、然し遂にはこの重苦しい雰囲気の重圧には耐えられなくなって了った、そうして、死の痙攣《けいれん》、断末魔の苦悶、そんな妙な形容詞が脳裏に浮んだ瞬間私は腰掛けていた椅子をはねのけて彼を抱き起し、力一杯ゆすぶって目をさまさせようと大声で水島の名を呼んでいたのだった――。
 私のこの狂人染みた動作が効を奏してか、彼の青白い顔には次第に血の気が表われて来た。然しそうして少しの後、口が听《き》けるようになると直ぐ乾からびた声で、
『駄目だなァ君は、今やっと最後の快感にはいり始めたのに……』そういって力のない瞳で私を見詰めるのだった。けれど私は水島にそういわれ乍らもなんとなく安心した様な気持になって、彼の言葉を淡く聞いていたのである。

 私はあの息を止めるという不可能な実験の後、私の好奇心は急に水島に興味を覚えて、暇をみては彼の家に遊びに行くのが何時からとはなく例になっていた。
 所が或る日、何時もの通り水島を訪れると恰度又彼があの不可思議な『眠り』をして居るところに行き合った、今見た彼の様子はいかにも幸福そうな、物静かな寝顔であった、この前は初めての事なので無意識の不安が彼の顔に死の連想を見せたのかも知れない……。
 私はこの前のように周章《あわて》て起して機嫌を悪くされてもつまらぬから、そっと其儘にして見ているとしばらくして彼は目をさました。
 そうして二十分も息を止めている間の奇怪な幻覚を話してくれたのである。それがどんな妖しい話であったか。
『僕が息を止めている間に様々な幻の世界を彷徨するというとさも大嘘のように思うだろうがまあ聞いてくれ給え。
 例えばこの「息を止める」ということに一番近い状態は外界からの一切の刺激を断った「眠り」という状態だ、この不可思議な状態は凡ての人々が余りにも多く経験するので、それに就いて少しでも深く考えようとしないのは随分軽卒だということが出来る、君、この「眠り」の中にどんな知られぬ世界が蠢《うごめ》いていることか……、そして又君は屡々《しばしば》寝ている間にどうしても解けなかった試験問題の解を得たり、或は素晴らしい小説の筋を思い付いたりして所謂《いわゆる》霊感を感じるというようなことを聞いたり、或は君自身も経験したことがあると思う、それというのも皆この第二次以上の空間を隙見して来たに過ぎないのだ、ところが君、この「眠り」にも未だ現世との連絡がある、それは呼吸だ、それがある為に人々はまだ幻の世界に遊ぶことが出来ないのだ、併し僕は其唯一の連絡を切断して了ったのだ――。
 人は皆胎児の間に一度は必ず是等の幻の世界に遊び、そうして其途上に何か収穫のあったものが生を享けてからこの現実の世界に於て学者となり、芸術家となり、又は犯罪者となるのだ。
 幻の世界は一つではない、清澄な詩の国もあれば、陰惨な犯罪の国もある。昔、仏教は訓《おし》えた、次の世界に極楽と地獄のあることを、それを思い合わせて見ると、この地獄極楽を訓えた者も或は僕の如くこの幻の世界の彷徨者であったかも知れぬ』



底本:「怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像」ちくま文庫、筑摩書房
   2003(平成5)年6月10日第1刷発行
初出:「探偵趣味」
   1931(昭和6)年7月号
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年11月13日作成
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