蝕眠譜
蘭郁二郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)聊《いさ》さか

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)度々|頂《いた》だきました

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ばあや[#「ばあや」に傍点]が、
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      一

(一体、どうしたのだろう……)
 私は、すくなからず、不安になって来た。あの親友黒住箒吉がまるで、ここ二三ヶ月というもの消息不明になってしまったのだ。
 私が、自分から「親友」などと呼びかけるのは、聊《いさ》さかキザだけれど、でも、彼には、あの変屈な金持黒住箒吉には、友だちというものは、この私一人しかいない筈なのだ。
 黒住と私とは二代続きの、おやじから受けついだ交友であった。彼の父が家に遊びに来た時など、いつも彼の変屈を心痛して、
『春ちゃん、箒吉はアンナ風だけれど、よろしくお願いしますよ……時々お遊びに来て下さい――』
 と、いかにも父親一人の家庭らしい、優しい、思いやりのある言葉で、私を誘ってくれた顔を、フト思い出すのである。
 いまは、もう彼の父も、私の父も既に亡くなってしまって、第二代目の交友に引つがれてしまった。そして時々私は箒吉のことを偲い出す度に、手紙のやりとりなどして、死んだ彼の父に、お義理の端を済ませていたのだが。――
 彼は、なかなか自分から私に呼びかける男ではなかったけれど、私の出す手紙には、きっと、木霊《こだま》のように、返事を寄来《よこ》すのだった、彼もたしかに寂しいには違いない、彼も決して悪い男ではない、ただ、世の人との交際の術を全然持ち合せていないのだ――と、私は思っていた。
 ――それが、茲《ここ》二三ヶ月、いくら手紙を出しても、いくら安否を問うても、まるで梨の礫《つぶて》であった。
 私は、不安になって来た、いままでが、私の手紙に対して几帳面な黒住だっただけに、何かしら黒い翳を感ずるのである。(一体、どうしたのだろう……)

      二

 私は、五時を合図に退社《ひけ》ると、その足で東京駅にかけつけしばらく振りで省線電車にゆられ始めた。
 そして、黒住の住む西荻窪の駅に、はき出された時は、もう空の茜《あかね》が薄黝《うすぐろ》く褪《あ》せた頃だった。
 燦々と輝く電燈を吊した新興商店街を抜けると、見覚えの道が、黒く柔らかに武蔵野の森に続いていた。私は黙々として記憶の道順を反芻しながら、いくつかの十字路を曲ると、むくむくと生え並んだ生垣の中に、ぼんやりと輪を描く外燈を発見した。
 私は、も一度「黒住」とかかれた真ッ黒い表札を確めると玄関の格子戸を細目にあけ、案内を乞うてみた。
(はい……)
 そんな返事が、台所の方できこえると、ばあや[#「ばあや」に傍点]が、濡れた手を、前掛で拭き拭き出て来た。
『まァ、春樹さんじゃありませんか、まァまァすっかりお見外《みそ》れいたしましたよ、ほんとにお久し振りで……』
 ばあや[#「ばあや」に傍点]は久し振りの訪問者を、嬉しそうに迎えてくれた。
『まったく、御無沙汰しました。……箒吉君は――』
『ええそれが……まァおかけ下さいまし』
 ばあや[#「ばあや」に傍点]は蒲団を押出すように、私の方に寄来した。
(いないのか――)
 私は軽い失望を味わって、蒲団に腰を下ろした。
『それが貴方……』
 ばあや[#「ばあや」に傍点]はいかにも大事件だ、というように手をふりふり話し出すのであった。
『まァほんとうに、貴方様に来ていただいて、どんなに心強いか、知れはしませんわ……ええ、そりゃ御手紙を度々|頂《いた》だきましたのは、よく存じておりますけど……何せ、同じ家に居りながら、わたしもちかごろは、まるで箒吉様にお逢いしませんし……』
(妙なことをいう)
 私の口の先まで、出かかった言葉を、ばあや[#「ばあや」に傍点]は押しかえすように
『何せまァ、わたしは心配で心配で、それは前から変った御気性の方ではございますけど、それがまァこの頃は、一体何をなさって居られるのやら、わたしにも一向わかりませんので』
『へえ、じゃ家にいないので――』
『いいえ、それが貴方、ずっとお部屋にいられるようなんですけど、そのお部屋が――ええなんと申し上げましょうか……その座敷牢……とでも申し上げたいような……』
『自分で好んで、はいってるんですか』
『滅相もない、なんでわたし共が旦那様を座敷牢などに――それは御自分でお造りになったので、わたしが御食事を差し上げますのは、戸に小さな窓が開いておりまして、中から箒吉様がお開けになって受取られるほか、覗くこともお許しになりませんのでございます』
(そんなことが……。正気の沙汰じゃないぞ)
『へんな話ですねェ、で、いまもその部屋にいるんですか』
『さあ、それが、真夜中なんかに、ふいとお出掛になられますので、ハッキリ申し上げられませんけど、今日は御食事のお知らせもございませんし、……多分お出掛と思いますけど……』
『兎《と》に角《かく》』私は(ここまで来たついでだ。)
 と思うほかに、いよいよ不安が増して来たので
『兎に角、一度その部屋をみせてくれませんか――』
 とばあや[#「ばあや」に傍点]に案内してもらって、その部屋へいってみた。
 成るほどその部屋は、頑丈な、分厚つそうな樫のドアーに堅く閉され、一寸、押してみた位ではびくともしなかった。
 耳を澄ましてそのドアーに押しつけてみると、中ではただタチタチタチと、時計の音が絶え絶えに響いているばかりであった。
(一体、これはどうしたというのだ……)
 私は、むくむくと入道雲のように拡がる不安と、様々な想像とを倍加されただけでむなしく帰らなければならなかった。

      三

 暗い夜霧の下をくぐって、私がアパートに帰りついた時だった、アパートの入口の事務所のおじさんが、
『一寸、お留守にこの方が見えましたよ、……顔色の悪い人ですねェ――』
 と差し出された名刺には、「黒住箒吉」と鮮やかに印刷されていた。私の目には、その文字がピョコンと飛出してみえた。
 周章《あわて》て裏がえしてみると、名刺の裏には鉛筆のはしり書きで――御無沙汰失礼。お留守で残念だった、重大な要件で、是非一度会いたい、明日午後六時銀座ナイルで――
 と、簡単に書いてあった。
(行き違いだったのか)
(それにしても、重大な要件とは――)
 でも、あした[#「あした」に傍点]の六時にはすべて解決するだろうと思った。

      四

 先刻、 ! ! ! ! ! !
 と、喫茶店ナイルの時計が、私の肩の上で鳴ったが、黒住は、まだ現れなかった。
 総硝子張りの、温室のような近代構成派の喫茶店ナイルは光々と白昼電燈に照らし出されていたが、硝子戸一枚の外はあの銀座特有のねっとりとした羊羹色の闇が、血管のようにくねくねと闇にはしるネオンサインを小さく瞬《また》たかせながら垂れ罩《こ》めていた。
 もう冷えきったコーヒーのカップを口に運ぼうとした時だった。冷ッとする空気と一緒に、ドアーを押しあけて、はいって来た男があった、一目で私は
(黒住――)と直感した。
 黒住は、薄く笑いながら、私の前の椅子に腰を下ろした。
『しばらく、待った……きのうは、行き違いになってしまって――』
 私は、黒住が来たら、いまの今まで、約束の時間を無視したことを、詰ってやろう、と心構えにしていたのだが、一目彼の様子を見ると、その余りに憔悴《しょうすい》した容貌に押されて、口を噤《つぐ》んでしまった。
 その高く突出した頬骨の下に、洞穴《ほらあな》のように落ち窪んだ頬、いつの間にか老人のように蒼白くたるんでしまった皮膚、どんよりと灰色に濁った瞳、それらと奇怪な対照をなす真赤な薄い脣――これらは一体、何を語るのであろうか……。
『どうしたんだい君、病気なのか――』
『いいや』
 黒住はだるそうに、口を動かし始めた。
『手紙の返事も出さないで、悪いとは思ってたんだが、何しろ、今、一寸重大な実験をしてるんでね――』
『重大な要件、っていうのは』
『それなんだ、実は、僕はもう長いことないかも知れないんで、君に、色々頼みたいこともあるんで……』
『バカな――』
 私はそれとなく、さっきから黒住の薄い影を気にしていたので、思わず大きな声でその不安をはね飛ばそうとした、だが黒住は案外落着いて
『いや、ほんとうだよ。でも僕は命なんか惜くないと思ってるんだ――といきなりいったって、君には解ってくれまいけど』
『どんなわけなんだ一体、はじめからいってくれ給え……』
『うん……』
 黒住は軽く咳き込むと、すぐ続けた。
『実は、いま人間は眠らないでも、いいという実験をしてるんだ……』
(この男、気が狂ったのではないか――)
 私は、しげしげと彼の顔を見直した。
『そういったって、君は信じてくれないだろうけど、これは実際なんだ、現に実験中なんだ』
『君。バカなことをいっちゃいけないぜ、しっかりしてくれよ、一晩徹夜したって疲れてしまうのに、眠らないでいられるもんか――』
(バカバカしい) 私は吐出すようにいった。
『いや』 黒住は、平然と続けた、
『君、そんなことをいうのは認識不足だよ、一寸例をとれば――ほら君自身だって経験があるだろう、四月までは八時半始業だった学校が四月からは八時になる、三十分早くなれば三十分早く起きればいい、それは二三日つらいけど、すぐ馴れちまう、それだよ、この習慣というやつを利用するんだ、これなら出来るだろう――』
(それはそうさ、三十分位――)
『それを考えたら出来る筈じゃないか、あした[#「あした」に傍点]は今日より三十分早く起きる、そのあした[#「あした」に傍点]は又三十分早く起きる――といったって、毎日三十分ずつ早く起きたら溜らないから十分位ずつ早くおきて、それに馴れたら又十分位ずつ――十分位早く起きるのは一週間もあれば馴れちまうよ、馴れるというのは恐ろしいもんだね、習慣というのは実に偉大なもんだ、この世の中はすべて慣性、イナーシアーというものが支配しているんだ……』
 黒住は、滔々と奇怪な説明を始めるのであった。私は、普段黙ってばかりいる箒吉の、このモノに憑かれたような饒舌に、寧ろ唖然としてしまった。
『それで、君は、眠りを減らしているというのかい――』
『ウン、僕はここ数ヶ月、血の出るような苦心を払った、僕は一週間に二十分位ずつ睡眠時間を減らしてみたんだ、そして君、成功したよ、もういまでは二日に十五分も寝ればいいんだ、四十八時間のうち十五分しか寝ないんだ、もうすぐ三十日間に十分も寝ればいいようになるだろう……』
 私は、黒住が、これほど巧みな話術を、持合せていようとはいまの今まで気がつかなかった。
(なんだバカバカしい――)と思うほかに(或は、そうかも知れぬ……)とも思われて来るのだ。
 ダガ――
『ナゼそんなことを始めたんだい』
 私は、とうから聞こうと思っていた問題に辿りついた。
『それは、それは一寸』
 彼は何故《なぜ》か一寸|口籠《くちごも》ったが、
『まァ、いってみれば、僕はあのまどろみの快感を味わいたいからなんだ、あのぬくぬくと暖かい床の上に長々と、ねているのか、覚めているのか、そんな訳のわからぬ快よい線を彷徨《さまよ》いながら起きる気持、手足には鉛がつまったように、いまにも抜け落ちそうなカッタルさ……僕にはその気分がたまらなく好ましいんだ、で、始めの中は、早く起きてはそのふらふらするような快感に陶酔していたんだが、それが段々深味におちて、もう救われなくなってしまったんだ――「眠り」という与えられたものを無理に引剥がした――罪かもしれないね……』
 彼は、こういうと寂しそうな声をたてて笑うのであった。
(無理に眠りをへらして、そのふらふらする気持に陶酔するなんて……)
(でも、黒住のような変屈者《へんくつもの》には、そういうものかも知れぬ……)
『君、それだけの理由じゃないだろう』
 私はワザと詰問するようにいった。
『えっ、そんなこ
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