とは……じゃあ、一緒に家へ来ないか――』
彼はギクリとしたように立ち上ると、もう出口の方へ、あゆみはじめた。
五
私は、その痩せ呆うけた黒住の肩口を見詰め乍ら、彼について行くより仕方なかった。
(いい機会があったら、そんなバカなことを止めてやらなけりゃ……)
黒住も、私も黙々と歩きつづけた。
×
又黒住の家へ、私達がついたのは、もう九時も廻っていたろうか……でもばあや[#「ばあや」に傍点]に一寸挨拶をし、彼の部屋にはいって固く戸を閉し、間もなくばあや[#「ばあや」に傍点]がお茶をあの小窓から渡したきり、私達二人は、全然この世の中から隔離されてしまったのだ。その部屋は八畳位の広さで、窓は一ヶ所もなく、真白い箱のようなものであった。
その中に、大きな寝台が一つ、書物のとりちらかされたテーブルが一つ、椅子が一つ、タッタそれだけの世界であった。その外目につくのは部屋のつきあたりにある一間位の押入とテーブルの本の間に挟まって、かすかにあゆみ続ける時計位のものであった。
(この間の時計の音は、これか――)
私はそんなことを思いながら、部屋の中を見廻していた。
黒住はベットに腰を下ろすと、私に椅子をすすめながら
『さっきは、何しろ外だったんで、ゆっくり話も出来なかったけど、僕は君がこんなヘンなことを始めた理由を……といわれた時は、思わず僕の心の底をみすかされたような気がしたんだ』
とぽつりぽつり話し出すのであった。
『実際、僕もはじめは、あの寝覚めの妙な気持に興味を持ってやったんだけど、それが、最近そうとだけはいわれなくなって来たんだ。それは一寸、なんだけど、新らしい恋人が現われたのだ』
(恋人――)
私は、あまりの思い構けぬ言葉に、呆然としてしまった。
『寧ろ、祝福すべきじゃないか――』
『いや、それがこの世のものではないんだ』
『――君は一体、僕をからかってるのか』
『いや失敬失敬、僕のいい方が悪かった、――でも、一寸適切な言葉がなかったもんだから……』
彼は寂しそうに笑うと、目を伏せてしまった。
私は何かしら異様な気持に襲われ乍ら
『君ハッキリいってくれたまえよ、もしそのことが重大な要件であり、僕に手伝いの出来ることなら遠慮なくいってくれたまえ、及ばずながら、なんとかしよう……』
『ありがとう、君がそういってくれるのは、トテモ有り難いけど、でも駄目な話だ、僕の恋人は夢の中だけしか現われて来ないのだ――』
(夢の中の恋人――)
私はその時代がかった話に、重ねて唖然とせざるを得なかった。
(今の世の中に、夢の中の恋人に憬《あこが》れる男があろうか……)
『君、とても信じてはくれないだろうけど、その彼女。ルミは、あの夢現《ゆめうつ》つのまどろみの中に現われるのだ――あの素破《すば》らしい弾々《だんだん》たる肉体、夢の様な瞳、葩《はなびら》のような愛らしい紅《くちびる》、むちむちとした円い体の線は、くびれたような四肢を持って僕にせまって来るのだ、イヤ、僕の口ではとても満足に彼女の素破らしさを伝えることの出来ないのが残念だ……』
黒住の顔は、かすかではあるが紅潮して来たようであった。
彼は又続けるのである。
『僕は、その彼女と逢う為に、前にも増してどんどん眠りを減らして、その深いまどろみをつくらなければならなくなった、――この儘では、眠りを全然失った時、それは僕の死ぬ時かもしれないけど……そんなことは、今の僕には問題じゃない。――ただ最後の場合になった時に、君だけはタッタ一人の友だちだから、事情を知っていてもらいたかったんだ』
私は、いつか言葉を失って沈黙してしまった。彼も亦、黙って時計の音に聞き入っていた。
六
それから、どの位時間がたったであろうか、突然黒住が立ち上ると、
『さあ、これから十五分ばかり寝なけりぁならんから、一寸失敬する……』
私は、ぼんやりと彼のなすままを見詰めていた。彼は目の前で洋服を、手早く脱いでしまうと、ベットに潜り込んだ――とみるまに、もう眠りに引ずり込まれていったようである。
私は、見るともなく、彼の寝顔に見入った。その余りにも瘻《やつ》れ果てた容貌、いたいたしいばかりに薄っぺらな胸板――彼は、一体どんな女に溺れてしまったであろうか……。
思い出すともなく、少年時代からの彼の様子などを考え出していた時、私は、思わずアッと叫ぶところであった。
彼が起き上ったのだ。
ダガ、彼はまだ寝ているのである。危なっかしい早瀬を渡るような足取りで、ベットからはなれたのだ。
(夢遊病――)
忌《いま》わしいそんなコトバがフト浮んだ。彼は私の前を無視して、押入の方に歩いていった。彼はたしかに目を開いていた。だが、その瞳はそこひ[#「そこひ」に傍点]のように濁っていた。
私が、呆然としている中に、彼は押入まで辿りつくとその戸を開けて、何か、がさがさと抱え出した。
『アッ……』
到頭《とうとう》、私は小さい驚ろきの声を出してしまった。押入の中には美しい少女がいるではないか。
彼はその少女を懐《なつかし》げに抱えると、又ベットに帰り始めたのであった。私は思わず椅子から腰を浮かせた。
(人形か――。人形だ)
如何にもそれは、驚ろくべきほど精巧につくられた外国人形であった。一目見た時は、はっとするほど精巧な人形であった。私はフト彼の父の外遊を思い出した。
(あの外遊の御土産かも知れない……)
――私が、そんなことを考えている中にベットの上ではその人形ルミと、黒住との奇怪極まる悦楽が始まったのだ。
黒住は、無惨にも人形の着物を最後の一枚までもはぎとってしまった。そして、ぽい、と私の目の前になげすてられた時、どうしたことか、私はその着物から、ほのぼのとした甘い少女の体臭を強く感じたのだ……。
私の心は妖しく震えて来た。
(そんなことはない、人形だ)
と思いながらも。
然し私はその赤裸にされた人形の体全部に、点々とした、くちづけの跡を発見した時、私の心の隅にあった獣心が、力強く起き上って来、烈しい嫉妬に、思わず椅子をはねのけて立上った。
(夢の中の恋人だなんて――)
私はそんな美しい言葉を使った黒住が、殺してもあきたらぬように思えて来た。
やがて人形ルミと黒住との優しい愛の囁きがボソボソと聞え始めて来た時は、私の心は全く平衡を失っていた。この奇怪至極な、この世のものでない雰囲気は、私の心をすっかり掻き乱してしまったのだ。
私はテーブルの上に投出された鍵をつかむと、ぶるぶると震える手でドアーを開け、又ピンと錠をおろしてしまった。ばあや[#「ばあや」に傍点]はもう寝てしまったのか、目にふれなかった。私はその儘黒住の家を抜け出すと、あてもなく夜の道に彷徨《さまよ》い出た。
(人形、ルミ……)
夜は深閑と更けて、彼方の骸骨のような森の梢には、細いいまにも破け落ちそうな月がひっかかり、新聞紙がもののけのように風にのって駛《はし》っていた。
(黒住のヤツ、わざわざ俺の目の前で……)
私の網膜には、まだあの縺れ合った恥態が、なまなましく焼きついていた。
「ふ、ふ、ふ……」
フト、ポケットに突込んだ手の先に鍵が触った。
(こいつが、なくなったらあの二人は飢え死だ!)
私は、思い切り遠くへ、その鍵を投棄てた。どこかで、チャリンと音がしたようだ。
「ふ、ふ、ふ……」
私は溜らなく可笑《おか》しくなって来た。私は、大手を振って訳のわからぬことを呶鳴りながら歩き続けた。
道はいつのまにか黒い坂道へかかっていた、空気は月光の下で、白い渦を巻いて流れていた。目の前には忽然《こつぜん》と巨大な瓦斯《ガス》タンクが立ちはだかっていた。細い雑木林は、悄々と鳴っていた。月はボロボロと光りの雫《しずく》を落していた。この世の中の全体が、何かトテモたまらなく、切っぱ詰《つま》って来たように思われて来た……。
底本:「怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像」ちくま文庫、筑摩書房
2003(平成5)年6月10日第1刷発行
初出:「探偵文学」探偵文学社
1935(昭和10)年12月号
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年11月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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