植物人間
蘭郁二郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)喘《な》き声
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)駈|上《あが》って
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
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一
鬱蒼と膨れあがって見える雑木の森が、左右から迫っている崖に地肌も見えぬばかり覆いかぶさっていた。なんとなく空気までもが、しっとりとした重みを持っているようにさえ思われる。いかにも南国らしい眩しく輝く太陽も、幾重にも繁った葉や枝や幹に遮られて川島の足許に落ちて来るまでにはすっかり弱められていた。
川島は、両肩に喰い込んで来るリュックサックを、時々ゆすり上げるようにしながら、舌打ちをまぜて歩いていた。どうやら道を間違えてしまったらしいのだ。
南紀の徒歩旅行を思い立って田辺町から会津川を遡り、奇岩怪峰で有名な奇絶峡を見、あれから山を越して清姫の遺跡をたずねたまではよかったのだけれど、それから熊野川上流の九里峡にまで出る道のりを、自動車道路に沿って行くというのではなんとなく平々凡々すぎるように思われて、不図道を右に折れてみたのが、どうやら失敗の原因らしかった。
行くにつれて、何時しか小径は木立の間に消え失せ、地肌という地肌は、降りつもった朽葉にすっかり覆われてしまっていて、未だかつて人類などというものが踏んだこともないように、ふかふかと足を吸い込んでしまう始末だった。
しかし川島は、その実あまり弱ってもいなかった。少々ぐらいの道の迷いやそれについての苦労ならば、却って後までもハッキリした思い出になってくれるものである。バスで素通りしたところよりも、靴の底が口をあけてしまって藁で縛り乍ら引ずって歩いたところの方が、寧ろあとでは愉しい道なのだ。殊に暦の上の秋は来ても、この南国紀伊の徒歩旅行では、たとえ道に迷わなくとも野宿の一晩ぐらいはするつもりでいたのだ。リュックサックにも、その位の用意はしてある。
だから川島は、いくら道に迷っても、自分自身を遭難者だとは思っていなかった。舌打ちしながらも、何処か心の隅では
(到頭迷ってしまったぞ――)
といったような、期待めいた感じすら持っていたのだった。
あたりは、防音室の中にいるように、物静かだった。たまに立止って、どちらへ進もうかと木立の繁みのなかを見廻すのだが、そんな時でも稀に名も知らぬ小鳥が奇妙な喘《な》き声をするのを耳にとらえるくらいのもので、蝉の声すらもまったく聴えなかった。あたりに鬱蒼と立罩《たちこ》める松、杉、櫟、桜、そのほか様々な木々は、それぞれに思いのままに幹を伸ばし、枝を張り、葉をつけて空を覆っていた。その逞しさは、尠くとも都会の街路樹などとは比べものにならぬ水々しい樹肌を持ってい、而も思い思いの木の体臭を振撒いていた。
だが、川島のこの舌打ちの出る愉しい遭難は、二時間たらずで終りが見えたように思われた。
というのは、相当に急な崖を下《くだ》りはじめると、木の間もれに、向うからも崖が迫っているのが見え、そして、その下の方に光った水が見えはじめたからである。若しそれが渓流ならば、それに従って下って行けば自然に人家のあるところに出られるのは、山道を歩く場合の殆んど常識といってもよかったからである。
川島は、深山幽谷のつもりで跋渉《ばっしょう》して来たところが、突然、お屋敷の裏庭に飛出してしまった時のような、むしろ飽気《あっけ》なさを覚えながら、下って行った。しかし、間もなくその光っているのは水ではあるが、流れではないのに気がついた。視界が広まるにつれて、その水の面《おもて》も亦広がって行くのだ。
それは、こんなところに想像もしていなかった沼だった。そしてその沼の面は、まるで一面に苔蒸したように青みどろに覆われ、ねっとりとしたゼリーのように漣一つ立ててはいなかった。
川島は、水際まで下りる前に、朽ち倒れた松に腰をかけながら、その眼の下にひろがっている沼を見渡した。沼はなかなかの広さと得体の知れぬ深さをもっているように思われた。しかも、念のためポケットに捻込んで置いた地図を引張り出して見たのだが、どうしたことか、最初の分れ道の辺から二時間ぐらいの間に迷ったと思われるあたりをいくら探して見ても、一向に沼のあるような印はつけられていないのだ。
尠くとも、今迄は相当に微細な小径まで符合していた地図が、この沼に限ってそれを全然落している、というのも可怪《おか》しなことだった。――或は、この沼は、地図が測量された以後に、多量の雨水が溜って出来たのかも知れないが、それにしても測量の時までは沼となる痕跡すらもなかったらしいのは奇妙である。
川島は、其処の倒れた松に腰かけて一ぷくしながら、緑《あお》いゼリーのような、地図に無い沼を見下《みおろ》していたが、やがて煙草を棄てて水際までおりて行った。
思ったより広い沼だった。ざっとした目分量では五百坪ぐらいもあるように思われた。そして水際まで降りて行っても、水の底は見えなかった。びっしりと緑い絨毯を敷詰めたように微生物が水の表面を覆っているのだ。その上四方は鬱蒼とした森を持った崖が迫っていて、これだけの広さだのに、輝くような日光の直射を受けているのは、沼のほぼ中央の、ほんの一部分だった。そしてそこは緑い微生物の群のために膨れ上っているように見え、本当に明るいのはその部分だけで、そこから遠ざかるにつれて薄暗く、向う岸などは此処から見ると藍色味を帯びているように見えた。子供の時に聞いた魔の沼のようであった。
が、そうして、あたりを見廻していた川島の好奇な眼に、思いがけないものが飛込んだのだ。それは、左手の方の一寸入り込んだ水際につながれているボートだった。ボートというよりもボートと小舟の折衷のような、早くいえば無細工至極なものだったけれど、兎も角そうしたものがある以上、近所にこの沼を利用している人間が住んでいることは間違いもないことだ。
地図に無い沼を偶然に発見して、ハイカーらしく胸を躍らせていた川島は、見事に肩すかしを喰ったような気持だった。
(しかし……)
川島は、道のない水際をそのボートの方に歩きながら考えた。この沼には魚の類は一つもいないようだ。――若しいるとすれば、魚にとって絶好な食物の緑い微生物が、これほどまで自由に繁茂し、沼全体を占めてしまうわけがない。とするとそのボートは人間が魚をとるために使うものではなさそうである。
二
とにかくそのボートのつないであるところに行けば、人間の来る小径がついているであろうと、ともすれば足許の滑りそうな水際を踏しめながら進んで行き、沼の面とすれすれに横に匍い出た大きな紅葉の幹を乗越えた時だった。
今度こそ川島は、流石にギョッと眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ってしまったのだ。
その入り込んだ蔭になっていたボートの艫《とも》に、これこそ全く思いもかけなかった少女が独り、真正面《まとも》にこちらを向いたまま腰をおろしているのである。
向うでもこの異様なハイク姿の川島が、突然森の中から現われたのに気がつくと、川島以上に愕いたらしかった。それはあわてて彼女が立上ろうとした拍子に、平均を失ったボートがいまにも顛覆しそうに揺れ動き、丁度都合よく駈寄った川島が艫を抑えなかったならば、彼女はそのまま青みどろの沼の中に抛出されてしまったに違いないと思われたくらいだからだ。
「危かったですね」
「…………」
川島が艫を抑えてボートを水際に引上げるようにしながら話しかけた。けれど、彼女は舳先《へさき》の方に蹲《かが》んだまま、ただその円《つぶ》らな瞳《め》を二三度瞬いたきりである。
「ここは何んという沼なんですか、ぼくは一寸道に迷っちゃいましてね」
しかし彼女は、矢張り川島に眼を灑《そそ》いだまま
「さあ、いいえ……」
といったような無意味な言葉を、口の中で二言三言つぶやいただけだった。
いずれにしても、この木と草と土以外に生物といえば虫けら位しかいはしまいと思われていた鬱蒼たる森の、その急傾斜な崖に囲まれた沼のほとりに、十八九かと思われる美少女がただ独りぽつねんと小舟に腰をおろしていた、ということはどう考えても奇妙至極なことであった。最初のギョッとした愕きが覚めて来るにつれて、川島は今度はその疑問にしっかり胸を抑えられてしまった。
彼女は相変らず無言だった。而も彼女はひどく美しいのだ。それは全く予期もしていなかった山の中で、ひょっくり逢ったという特別な条件ばかりでなしに、たしかに都会の中に混ぜ込んでも、くっきりと一際目立つに違いないと思われるほど、彼女は美しいのだ。それは決してのしかかって来るようなアクティヴな美しさではなかったけれど、丁度その彼女の纏っている聊か流行おくれなワンピースの碧羅が、しっくりと吸い附くように似合うような、静かな柔かな美しさであった。
川島はいままで、これほどに緑の服の似合う少女を見たことがなかった。同時に、これほどまでに胸を搏つ美しさにも逢ったことがなかった。
川島は気がついたようにまだ艫を抑えていた手を離して、立ち直すと、重いリュックサックを肩から外《はず》し、輝いている沼を背にした逆光線の彼女に微笑しながら話しかけた。しかしその言葉は、何時もに似ず甚だぎこちないものだった。
「おどろきましたねえ、まさかこんなところに人がいるとは思いませんでしたよ」
彼女はその椿の葩《はなびら》のような唇を二三度動かしたけれど、それは喋るつもりではなくただ微笑んだものらしかった。
「この近くに家があるんですか、実はぼく迷っちゃったんですよ、熊野川の方に出ようと思ってたんですが、そっちに行くにはどんな見当でしょう……」
「…………」
しかし彼女は、矢張り微笑んだきりだった。
「ご存じないんですか――」
彼女は、すんなりとした透き通るような手を挙げた。そして、どちちかの方角を指そうとしたに違いないのだが、突然、さっき川島とぶつかった時のような強張《こわば》った表情になったかと思うと、挙げかけていた手を何時の間にかするりとおろしてしまっていた。
と同時に川島は、背後《うしろ》の方から森の中を踏分けて来る跫音を聞いて、思わず振り向いた。
三
森の中から近寄って来たのは、もう五十がらみかとも思われる男だった。垢によごれたズボンとシャツだけをつけ、胡麻塩の無精髭に覆われた男の、眼だけは敵意かとも思われる激しい光りを持っていた。
そして、その眼つきで川島の全身を点検するように頭から足許まで静かに見下した。川島は、その鋭い視線を受ける度に、丁度体の其処に触られたような無気味さを覚えた。これが彼女とは逆に、この男に先に逢っていたのならば、川島は疾うの昔に崖を駈|上《あが》ってこの地図にない沼のほとりから退散していたに違いないのだ。
だが今は、黙って退こうという気持は、一向になかった。
寧ろ精一杯の好意の微笑を浮べて
「どうも道に迷って弱っちゃいました。この近くに村がありましょうか」
と問いかけた。しかし胡麻塩の男は、それを聞き流して、もう一度|疑《うたぐ》り深い眼つきで川島を見廻してから
「ない、村なぞは無い」
「ほう――」
川島は、此処へ来て、はじめて人間らしい返事を聞くことが出来、一層微笑することが出来た。
「ほう、じゃこのお二人はよっぽど遠くから来られたんですか」
「いや――」
「へえ、どういうわけですか」
「わし達は、この近くにおる」
「はあ? するとこのお二人だけで山奥に住っていられるというわけですか」
「ふむ」
「ここは一体、何《ど》の見当なんでしょうか、この沼も地図に載ってないようですが……」
「載っておらん。載っておらんというのもわしが造ったからだ」
「造った――?」
「ふむ、水の出口を堰止めて雨水を
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