溜めただけのことだ」
「へえ、大変な事業ですね、何かよっぽどの研究でもされているんですか」
「ふむ――」
 その男は、もう一度川島の顔を疑《うたぐ》るような眼つきで見廻したけれど、しかしそれは彼の微笑に押しかえされてしまった。
 そして無意味に二三度頷くと
「君に果してこの画期的な事業が呑込めるかどうかはわからん、が、興味だけは持てるに違いない――、つまり其処にいる洋子に関することだからね」
 そう真正面《まとも》にいわれた川島は、又あわてて笑いを浮べたのだが、それは片頬が纔《わず》かに顫えただけの、我れながら卑屈なものであった。そして、照れたように後の洋子を振りかえって見ると、彼女は、まださっきのままに舳先に腰をおろしてい、真黒な瞳《め》をあげて、川島の汗の泌出た背中をジッと見詰めていたようである。
「ふむ、尠くとも君は悪い人間ではないらしい、信用しよう、いや歓迎しよう、ぼくは何も自分独りでこの素晴らしい新しい世界を独占しようとは思っておらんのだからね、というよりか君のような青年に、大いに語りたいのだ、年をとった者は駄目だ、年をとった者は何んでも自分の常識の中でしか行動しない、自分の常識以上のものは何事によらず変った眼で見ようとする、ぼくが此処で変った生活をしている理由をいって聞かせても、テンから信用しようとはしないのだからね、――けれど、君はそれを聞いてくれるだろう?」
 胡麻塩の男は、その風貌に似合わぬ若々しい言葉と声で話し出した。その話しぶりから察すれば、この男は前にも誰かに自分の変った謀《たくら》みについて語って、全く相手にされなかった不満さを持っているらしい。
 しかし川島は、真面目に頷いた。この男がともかく谷間を堰止めてこれだけの沼を造ったという奇妙な仕事も、傍らにいる美しい洋子に関することならば聞いて決して悔いないように思われた。寧ろ自分の方から聞き訊ねたいくらいであった。
 此処ではじめて初対面らしい挨拶を交して、川島はこの男が吉見という名であることだけはわかった。そしてその言葉つきからこの辺りの者ではなく、関東――というよりも東京に若い時分を送ったのであろうということも、想像がついた。
 吉見は、しばらく眼を伏せていた。それは何からいい出そうかと迷っているようにも見えた。
 が、間もなくその太い静脈の絡みついた手を挙げると
「ともかく、あれを見たまえ……」
 指差された森の繁みの中には、まだ何も見えなかったけれど、そういえば誰かが近寄って来るらしい、幾つかの跫音が、動きのない空気を透して、静かに伝わって来る。
 川島はじっと眼を灑いで待っていた。そして、ちらちらと人影が見え、最後の太い柏の幹の裏から、くるっと廻ってその全身をあらわした二人の少女が眼に泌みた途端、無意識に、低くはあったが、呻きに似た声を洩らしてしまったのだ。
 まったく、想像も出来ない人影だった。奇蹟だった。
 そこには、もう二人の『洋子』があでやかに立っているのだ。
 川島は、愕きというよりも、恐怖を覚えた。汗をかいたままでしばらく立止っていたせいばかりでなく、何か全身に濡れたような冷めたさを覚えた。
 そして、この周りをとりまく森という森の茂みの中には、何千何百という無数の『洋子』が充満し、一斉にワッとばかりに飛出して来るかのような眩惑にさえ襲われた。
 しかし、夢でも、手品でも、幻術でもないのだ。沼の上の、森を刳ぬかれた青空には、南国の太陽がギラギラと輝いているのである。

      四

 この人里離れた山の中の、鬱蒼たる森に囲まれた沼のほとりで、聊か流行おくれとはいえ碧羅のワンピースを纏った美少女と、胡麻塩の髭をもった吉見という男に、めぐり遇ったことからして偶然といえば偶然な出来事であったのに、その上に又、洋子と呼ばれる一眼で若い川島の心を摶った美少女と、そっくり同じ、まったく其儘な美少女が、あと二人も現われて来ようとは、その場に居、この眼で現在自分が見ていながら、なかなかに自分を信じ切ることが出来なかった。
 あとから現われた二人の少女も、洋子と同じような碧《あお》い薄物のワンピースを着ていた。たった一つの違いは、この三人のワンピースに縫取りしてある模様が、菊と薔薇と百合と三種類になっていることだった。最初の洋子に、菊の刺繍があったことを覚えていなかったならば、そして洋子がボートから降りてあとの二人の中に混ってしまったならば、川島は二度と彼女を見分けることが出来なかったに違いないのだ。
 つい先刻《さっき》まで川島は、一眼見た洋子の美しさと好もしさを、都会の無数の女の中に混ぜこんでも直ぐに見分けられると思っていた。だが、それはどうやら怪しくなってしまった。
(洋子たちは三つ児だろうか――)
 双生児《ふたご》ということはよく聞くことだし、川島の知人の範囲にも一組はあるのだが、三つ児というのは見たこともないし、あまり聞いたこともない。けれど五つ児ということもあるのだから決して荒唐ではない、いや、現在のこの場の奇妙さを説明するとすれば、そう考えるより仕方がなかった。
 それにしても、このそっくり同じな三人の少女と共に、こんな山奥で吉見という男は何を企んでいるのであろうか。
 川島の困惑に満ちた、遣り場のない眼が、やっと吉見の顔に止ると、吉見はそれを待っていたかのように、胡麻塩の髭に埋《うず》まった口辺《くちべり》を歪めて、白々と笑った。
「……君は結論から先きに這入ってしまったのだよ、この有様は、君をひどく愕かしてしまったらしいね、左様、宝石がだんだんに磨かれて行ったことを知らずに、いきなり出来上ったものの輝きに愕いているんだ」
「…………」
 川島は黙って吉見の顔を見詰めていた。返事が思いつかなかったのだ。
「よっぽどびっくりしているらしいね、まあいいさ一緒に来たまえ、すぐそんな疑問なんか棄ててしまうだろう」
 そういうと、吉見はもと来た森の中に帰りはじめた。川島は黙って頷くと、下してあったリュックサックを片肩にかけ、そのあとに続いて行った。
 まだ柏の幹のそばに佇んでいた二人の少女は、はじめて気がついたように、しかし相変らず無言のまますんなりと避《よ》けて、細い径《みち》を譲ってくれた。川島はその傍らを通り抜けた時に、何か、咲き乱れた花束のような匂いを感じた。
 径は、絶え絶えに細くつづいていた。径というよりも、少しばかり踏みかためられた木々の間を、心もち右肩を落して歩く吉見のままに従って行った感じだった。
 が、案外に早く崖が切れて、丸太造りの小屋についたのは沼のほとりから二三分のところであろうか。
 その小屋は一寸見たところ四五坪ぐらいのもので、ひどくお粗末な別荘といった感じだった。
「母屋《おもや》はも少し向うだけれど、まあここでお話しましょう、ここの方がいい」
 吉見はそんなことを呟くと、蝶番が茶色の粉を吹いたように錆ているドアを押して、招じ入れた。
「ここはわしの植物学研究所なのだ、尤も所長兼小使だが……」
 冗談らしくいったが、なるほどそういわれればその一部屋きりの小屋の中には、試験管だの、フラスコだの、顕微鏡だのそういった器械類が、丁度中学の時の化学教室を思い出させるような恰好で、並べられてあった。
「まあ一服して下さい、煙草を吸っても一向構いませんよ」
 吉見はそういいながら、不細工な椅子をすすめてくれた。
 眼の前の頑丈な実験台の上には、フラスコに入れられた緑《あお》いどろどろしたものが置かれてあった。それはさっきの沼の全面を占領していた青みどろのようであった。
 川島が、ほかに眼のやり場がなくて、それを見詰めていると、吉見は吉見で、それが彼の眼にとまったことを如何にも嬉しそうに
「これを知ってますか」
「いいえ。――植物ですか、小さな」
 そのあやふやな言葉にも、吉見は手を拍たんばかりによろこんだ。
「そうですそうです、植物です、じゃ、こっちを見て下さい」
 吉見は、何か培養器のようなものから、載物硝子《さいぶつガラス》に移したものを顕微鏡にかけ、川島をせきたてるようにして覗き込ませた。
 覗き込んだ川島は、ただ何か得体の知れぬものが伸びたり縮んだりして動き廻っていることしか、わからなかった。
「どうです、なんだと思いますか」
 吉見は、川島が眼を離すのを待ちかねたように顔を近づけて来た。
「さあ――」
「動物ですか植物ですか」
「さあ――」
 川島は返事の仕様がなかった。
「植物です、緑色に見えるでしょう、葉緑体をもった立派な植物なんです、動く植物、動物のように活躍する植物なんですよ」
 吉見の眼は、その奇妙な言葉とともに今迄にない生々とした色を浮べて来た。

      五

 川島は、脚のせいかそれとも床のせいか、兎《と》も角《かく》ガタガタと坐りの悪い椅子に腰をおろしながら、少々あっけにとられた形で吉見の言葉を聞いていた。
 吉見はまるで話したくてたまらなかったところへ、思いがけない無二の聞き手を見つけ出した時のようにびっくりするような熱心さで話しつづけるのだ。
「どうです、今君が、その眼でシカと見たように、植物の祖先も又動物の祖先のように活溌に動き廻っている。なるほど高等な動物と、高等な植物とは一見して判るけれど、しかしそれを遡ぼって行くにつれて、その境界というものは、甚だあやしくなって行くんだ。松の木と、その上に登っている猿とは一つとして似てはいない、それはお互いに分れた道を頂上まで登りつめているからだ。けれど、それを逆に次第に元へ戻って辿って行けばやがていつか同じ一本の元の道になってしまう。松も猿も、ともに養分を摂り、それを体の中に循環し、そしてともに消化酵素を持ち、呼吸をする、その生活状態はまったく共通なのだ」
「……そうですね」
 川島は、この吉見という男が、一体何を話し出そうとしているのか見当もつかなかった。が、ただその熱心な話しぶりには充分に好意が持てた。
「……そうですね、太古には植物とも動物ともつかぬ生物があって、それから色々なものが次第に進化して来たのが今の世の中だ、ってことは聞いてましたが……」
「そう、その通り、まったくその通りなんだ、先ず最初にやがて植物となるべき微生物が今君が顕微鏡で見たようなもの――と、それらのように葉緑体も細胞膜も持っていない――つまりやがて動物となるべき――細胞体とが分れた、それは全歴史を通じての最大な分岐点といえるだろう。ここに於いて松と猿とが分れたんだ、人間と雑草とが分れてしまったんだよ、だがしかし全く別のものではない、進化の仕方が途中で分れてしまっただけなんだ。運動や感覚は動物だけのものではない、朝顔の花は夜あけとともに開く、だから植物だって運動をする。その上はえとりぐさ[#「はえとりぐさ」に傍点]の奴は濡れた紙片をつけてやると欺されて捉えるけれど、つづけて二三回も欺してやるともうその次には反応をしなくなる、これこそ植物にも感覚と記憶があるという疑いのない証拠なんだ」
「ははあ、しかし一般に植物は動物みたいに活溌じゃありませんね」
「そう、そこだよ、その違いがこの二つの物の、最も根本的な違いなんだ、植物の奴は動物と違って食糧の残滓を体の外に棄てることを知らない――、それが不活溌なことの最大の原因なんだ、動物にしても海鞘《ほや》のように腎臓のない規則外れの奴があるが、こいつは迚《とて》も動物とは思えないほど鈍間《のろま》なんだから、このことからも残滓の排泄を知らないで、全身中にへばり附けている植物は不活溌だろうじゃないか」
「…………」
 相槌を打っていようものなら、吉見はおよそ何時間でもこの奇妙な話をつづけているに違いなかった。
 川島は、さっきの吉見の口ぶりから、なんとなくあの美しい洋子達に関しての秘密でも打明けられるように勝手に思い込んで、ついうかうかとこの妙な小屋について来た経緯《いきさつ》に少しずつ後悔を覚えて来た。こんな別の世界のようなことを、長々と聞かされるくらいなら、あのまま分れて、陽のあるうちに目的の熊野川へ出て
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