度体の其処に触られたような無気味さを覚えた。これが彼女とは逆に、この男に先に逢っていたのならば、川島は疾うの昔に崖を駈|上《あが》ってこの地図にない沼のほとりから退散していたに違いないのだ。
 だが今は、黙って退こうという気持は、一向になかった。
 寧ろ精一杯の好意の微笑を浮べて
「どうも道に迷って弱っちゃいました。この近くに村がありましょうか」
 と問いかけた。しかし胡麻塩の男は、それを聞き流して、もう一度|疑《うたぐ》り深い眼つきで川島を見廻してから
「ない、村なぞは無い」
「ほう――」
 川島は、此処へ来て、はじめて人間らしい返事を聞くことが出来、一層微笑することが出来た。
「ほう、じゃこのお二人はよっぽど遠くから来られたんですか」
「いや――」
「へえ、どういうわけですか」
「わし達は、この近くにおる」
「はあ? するとこのお二人だけで山奥に住っていられるというわけですか」
「ふむ」
「ここは一体、何《ど》の見当なんでしょうか、この沼も地図に載ってないようですが……」
「載っておらん。載っておらんというのもわしが造ったからだ」
「造った――?」
「ふむ、水の出口を堰止めて雨水を
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