はその椿の葩《はなびら》のような唇を二三度動かしたけれど、それは喋るつもりではなくただ微笑んだものらしかった。
「この近くに家があるんですか、実はぼく迷っちゃったんですよ、熊野川の方に出ようと思ってたんですが、そっちに行くにはどんな見当でしょう……」
「…………」
 しかし彼女は、矢張り微笑んだきりだった。
「ご存じないんですか――」
 彼女は、すんなりとした透き通るような手を挙げた。そして、どちちかの方角を指そうとしたに違いないのだが、突然、さっき川島とぶつかった時のような強張《こわば》った表情になったかと思うと、挙げかけていた手を何時の間にかするりとおろしてしまっていた。
 と同時に川島は、背後《うしろ》の方から森の中を踏分けて来る跫音を聞いて、思わず振り向いた。

      三

 森の中から近寄って来たのは、もう五十がらみかとも思われる男だった。垢によごれたズボンとシャツだけをつけ、胡麻塩の無精髭に覆われた男の、眼だけは敵意かとも思われる激しい光りを持っていた。
 そして、その眼つきで川島の全身を点検するように頭から足許まで静かに見下した。川島は、その鋭い視線を受ける度に、丁
前へ 次へ
全28ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング