跡すらもなかったらしいのは奇妙である。
川島は、其処の倒れた松に腰かけて一ぷくしながら、緑《あお》いゼリーのような、地図に無い沼を見下《みおろ》していたが、やがて煙草を棄てて水際までおりて行った。
思ったより広い沼だった。ざっとした目分量では五百坪ぐらいもあるように思われた。そして水際まで降りて行っても、水の底は見えなかった。びっしりと緑い絨毯を敷詰めたように微生物が水の表面を覆っているのだ。その上四方は鬱蒼とした森を持った崖が迫っていて、これだけの広さだのに、輝くような日光の直射を受けているのは、沼のほぼ中央の、ほんの一部分だった。そしてそこは緑い微生物の群のために膨れ上っているように見え、本当に明るいのはその部分だけで、そこから遠ざかるにつれて薄暗く、向う岸などは此処から見ると藍色味を帯びているように見えた。子供の時に聞いた魔の沼のようであった。
が、そうして、あたりを見廻していた川島の好奇な眼に、思いがけないものが飛込んだのだ。それは、左手の方の一寸入り込んだ水際につながれているボートだった。ボートというよりもボートと小舟の折衷のような、早くいえば無細工至極なものだったけれど、兎も角そうしたものがある以上、近所にこの沼を利用している人間が住んでいることは間違いもないことだ。
地図に無い沼を偶然に発見して、ハイカーらしく胸を躍らせていた川島は、見事に肩すかしを喰ったような気持だった。
(しかし……)
川島は、道のない水際をそのボートの方に歩きながら考えた。この沼には魚の類は一つもいないようだ。――若しいるとすれば、魚にとって絶好な食物の緑い微生物が、これほどまで自由に繁茂し、沼全体を占めてしまうわけがない。とするとそのボートは人間が魚をとるために使うものではなさそうである。
二
とにかくそのボートのつないであるところに行けば、人間の来る小径がついているであろうと、ともすれば足許の滑りそうな水際を踏しめながら進んで行き、沼の面とすれすれに横に匍い出た大きな紅葉の幹を乗越えた時だった。
今度こそ川島は、流石にギョッと眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ってしまったのだ。
その入り込んだ蔭になっていたボートの艫《とも》に、これこそ全く思いもかけなかった少女が独り、真正面《まとも》にこちらを向いたまま腰をおろしているので
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