あたりは、防音室の中にいるように、物静かだった。たまに立止って、どちらへ進もうかと木立の繁みのなかを見廻すのだが、そんな時でも稀に名も知らぬ小鳥が奇妙な喘《な》き声をするのを耳にとらえるくらいのもので、蝉の声すらもまったく聴えなかった。あたりに鬱蒼と立罩《たちこ》める松、杉、櫟、桜、そのほか様々な木々は、それぞれに思いのままに幹を伸ばし、枝を張り、葉をつけて空を覆っていた。その逞しさは、尠くとも都会の街路樹などとは比べものにならぬ水々しい樹肌を持ってい、而も思い思いの木の体臭を振撒いていた。
 だが、川島のこの舌打ちの出る愉しい遭難は、二時間たらずで終りが見えたように思われた。
 というのは、相当に急な崖を下《くだ》りはじめると、木の間もれに、向うからも崖が迫っているのが見え、そして、その下の方に光った水が見えはじめたからである。若しそれが渓流ならば、それに従って下って行けば自然に人家のあるところに出られるのは、山道を歩く場合の殆んど常識といってもよかったからである。
 川島は、深山幽谷のつもりで跋渉《ばっしょう》して来たところが、突然、お屋敷の裏庭に飛出してしまった時のような、むしろ飽気《あっけ》なさを覚えながら、下って行った。しかし、間もなくその光っているのは水ではあるが、流れではないのに気がついた。視界が広まるにつれて、その水の面《おもて》も亦広がって行くのだ。
 それは、こんなところに想像もしていなかった沼だった。そしてその沼の面は、まるで一面に苔蒸したように青みどろに覆われ、ねっとりとしたゼリーのように漣一つ立ててはいなかった。
 川島は、水際まで下りる前に、朽ち倒れた松に腰をかけながら、その眼の下にひろがっている沼を見渡した。沼はなかなかの広さと得体の知れぬ深さをもっているように思われた。しかも、念のためポケットに捻込んで置いた地図を引張り出して見たのだが、どうしたことか、最初の分れ道の辺から二時間ぐらいの間に迷ったと思われるあたりをいくら探して見ても、一向に沼のあるような印はつけられていないのだ。
 尠くとも、今迄は相当に微細な小径まで符合していた地図が、この沼に限ってそれを全然落している、というのも可怪《おか》しなことだった。――或は、この沼は、地図が測量された以後に、多量の雨水が溜って出来たのかも知れないが、それにしても測量の時までは沼となる痕
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