ある。
 向うでもこの異様なハイク姿の川島が、突然森の中から現われたのに気がつくと、川島以上に愕いたらしかった。それはあわてて彼女が立上ろうとした拍子に、平均を失ったボートがいまにも顛覆しそうに揺れ動き、丁度都合よく駈寄った川島が艫を抑えなかったならば、彼女はそのまま青みどろの沼の中に抛出されてしまったに違いないと思われたくらいだからだ。
「危かったですね」
「…………」
 川島が艫を抑えてボートを水際に引上げるようにしながら話しかけた。けれど、彼女は舳先《へさき》の方に蹲《かが》んだまま、ただその円《つぶ》らな瞳《め》を二三度瞬いたきりである。
「ここは何んという沼なんですか、ぼくは一寸道に迷っちゃいましてね」
 しかし彼女は、矢張り川島に眼を灑《そそ》いだまま
「さあ、いいえ……」
 といったような無意味な言葉を、口の中で二言三言つぶやいただけだった。
 いずれにしても、この木と草と土以外に生物といえば虫けら位しかいはしまいと思われていた鬱蒼たる森の、その急傾斜な崖に囲まれた沼のほとりに、十八九かと思われる美少女がただ独りぽつねんと小舟に腰をおろしていた、ということはどう考えても奇妙至極なことであった。最初のギョッとした愕きが覚めて来るにつれて、川島は今度はその疑問にしっかり胸を抑えられてしまった。
 彼女は相変らず無言だった。而も彼女はひどく美しいのだ。それは全く予期もしていなかった山の中で、ひょっくり逢ったという特別な条件ばかりでなしに、たしかに都会の中に混ぜ込んでも、くっきりと一際目立つに違いないと思われるほど、彼女は美しいのだ。それは決してのしかかって来るようなアクティヴな美しさではなかったけれど、丁度その彼女の纏っている聊か流行おくれなワンピースの碧羅が、しっくりと吸い附くように似合うような、静かな柔かな美しさであった。
 川島はいままで、これほどに緑の服の似合う少女を見たことがなかった。同時に、これほどまでに胸を搏つ美しさにも逢ったことがなかった。
 川島は気がついたようにまだ艫を抑えていた手を離して、立ち直すと、重いリュックサックを肩から外《はず》し、輝いている沼を背にした逆光線の彼女に微笑しながら話しかけた。しかしその言葉は、何時もに似ず甚だぎこちないものだった。
「おどろきましたねえ、まさかこんなところに人がいるとは思いませんでしたよ」
 彼女
前へ 次へ
全14ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング