自殺
蘭郁二郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)何処《どこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)彼の女|銀子《ぎんこ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)いたましい[#「いたましい」に傍点]
−−

      一

 それは何処《どこ》であったか、ひどく荒涼とした景色であった。灰色に鬱々《うつうつ》とした雲は、覆《おお》いかぶさるように空を罩《こ》め、細い白茶《しらちゃ》けた路《みち》はひょろひょろと足元を抜けて、彼方《かなた》の骸骨《がいこつ》のような冬の森に消えあたりには、名も知らぬ雑草が、重なりあって折れ朽《くち》ていた。
      ×
 中田《なかだ》は、なぜそんなところへ行ったのか、我ながらハッキリとした憶えはないのだが、総《すべ》てに、あらゆるものに、自棄《じき》を味わった彼は、飲みなれぬ酒に胸をただらし気まぐれに乗った郊外電車をとある駅に棄《す》てると、ただ無茶苦茶に、ぶつぶつと独言《ひとりごと》をいいながら――それは多分、かの女に対する呪咀《じゅそ》と、ああ、それはなんといういたましい[#「いたましい」に傍点]思い出であろう。彼は幾度《いくたび》か彼の女|銀子《ぎんこ》の幻像を撲倒《なぐりたお》し引《ひき》千切りしてきたのだが……と同時に、又自分自身を嘲笑《ちょうしょう》する言葉もあったろうが――歩き廻っているうち、いつの間にか、そんな荒れ果てた景色の中に、自分自身を発見したのであった。
 フト気がついてみると、次第に酔は醒《さ》めて来たらしく、思わず、ぶるぶるッとする寒さが、身に沁《しみ》て来た。そして、飲みなれぬ酒は中田の頭をすっかり掻《か》き廻《まわ》してしまったらしく、頸《くび》をかしげる度に頭の中で脳髄が、コトコトと転がるように感じた、
(どうにでもなれ――)
 彼は、口の中で自分を罵《ののし》ると、グッと外套《がいとう》のポケットに手を突っ込み、又、ひょこりひょこりとあるき出した。
 蕭条《しょうじょう》と荒れ果てた灰色の野の中を、真黒い外套と共に、あてもなく彷徨《さま》よっている中田の顔は、世にもすさみ[#「すさみ」に傍点]切った廃人のそれであった。
      ×
 それから又、どの位時間のたったものか、やはりハッキリしたことはいえないのだが、その荒涼たる道の向うから、も一人中田のように何か口の中で呟《つぶや》きながら、蒼白い若い男があるいて来た。
 その男はこの寒空に、着流しの着物をしどけ[#「しどけ」に傍点]なく開いて、猫じゃらしの帯が、いまにもずり落ちそうに見えた。着物は――中田の朦朧《もうろう》とした眼《まなこ》には、黒っぽい盲縞《めくらじま》のように思えたが、それが又、あたりの荒廃色と、妙に和合するのであった。
 中田は行きずりに、フト
『駅へは、どっちに行くんでしょう……』
 と、呟くように訊《き》くと、その若い男は、ギクンと立ち止まって、中田の顔を覗《のぞ》き込むと言葉|短《みじか》に
『こっちです』
 そういって、くるッと後《あと》を振り向き、今彼がやって来た方へ、コソコソと帰り始めるのだった。
 中田は、霞《かす》んだ頭の中で、
(案外、親切だな――)
 と小さく呟くと、遅れないように、その男と肩を並べてあるき出した。

      二

 それと同時に、宿酔《ふつかよい》に縺《もつ》れた中田の頭も、今日一日の目茶目茶な行動から、漸《ようや》く加わって来た寒気と共に、現実的な問題に近寄って来た。
 彼は矢張り黙りこくって、今までの成り行きを一生懸命|反芻《はんすう》してみたのだが、その記憶は極めて断片的なものでしかなかった。
 だが、彼女銀子に関しては、また余りにも鮮明な色彩をもって浮びいづるのだ。銀子の横顔に写る陽射しは儚《はか》なき男の血潮であろうか、その接吻《せっぷん》に腫《ふく》れた唇、そしてまだ陽を見たことのないクリーム色の(十二|字《じ》削《さく》)そして彼女の完全な(それは、悲しい、思っただけでも胸の疼《うず》くような)離反! 自棄酒《やけざけ》。そして自分は今まで、この始めて逢った男の、奇妙な話振《はなしぶ》りを夢中になって聞いていた……。
 然《しか》し、何故《なぜ》この男と知り合になったのだろう――そうだ、停車場《ていしゃば》へ行く道を訊いたのだった――フトその記憶に辿《たど》りつくと、中田は思わず足を止めて、改めてあたりを見廻して見た。だが、あたりは依然として、人家さえ視界から取払われた、曠茫《こうぼう》とした荒野にとりかこまれていた。それどころか――朝から天候の悪かった所為《せい》もあろうが――もうなんとなく薄暗くさえなって来て、荒涼とした廃頽的《はいたいてき》なこの原が、暗澹《あんたん》たる夜《よ》の帷《とばり》に覆われるのも、もうさして長い時間がかかろうとは思われなかった。
 中田は淡い後悔と伴に、なんともいえぬ苛立《いらだ》たしさを感じてきた、そして、ついに語気を強めて、その男に訊きかけた。
『君。一体何処へ行くんだ、駅はまだなのか』
 その男は、きょとん[#「きょとん」に傍点]と、中田の顔を見返して
『駅? 駅へ行ってどうするんですか』
『駅へ行って、帰るんじゃないか、この寒いのに僕をどこへ連れて行こうというんだ』
『そうですか、私はまた、あなたが僕の話を聞いてくれるというんで、非常に嬉しかったんですがねェ。誰も僕の話を聞いてくれないんですからね、どうですいい景色じゃありませんか。も少し一緒に歩きましょうよ』
『莫迦《ばか》な、君は一体気違いなのか』
 中田は思わず腹立ちまぎれに怒鳴った。
『気違い?』
 その男は気違いといわれると、急に眼に妖しい光を浮べながら
『誰でも僕のことを気違いというんですよ。世の中なんて利己的な奴ばかりだ』
 彼は如何《いか》にも慨嘆《がいたん》に堪えない、というような顔色をみせた。そして
『それどころか僕を、到頭《とうとう》犯罪狂だといって、気違い病院へたたき込んだんです。……屹度《きっと》あいつらの仕業《しわざ》なんだがね……それが昨日ですよ。だけど現に気違いでない僕には、到底あんなところにいられませんよ。だから今朝看護人の隙《すき》を見て遁《に》げだして来たんです、ざまあみやがれだ』
 その男はそういうと、如何にも可笑《おかし》そうに、不遠慮な大声を上げて笑い出したのであった。
 その不規則な狂人の笑い声を聞くと同時に、中田は、後頭部にスーッとしたものを感じ、先《さ》っきから何かしら得体の知れぬ、不思議な戦慄の原因が、やっと解ってきたように思われた。
 何という莫迦なことをしたのであろう、中田はそう思った。例え失望と無茶酒で、頭が平衡を失っていたとはいえ、俺はこの気違いと一緒に、何時間かの間この荒野を彷徨《さま》よい、狂人の奇怪な幻想の数々を、如何にも感心しながら聞いていたのか、と思うと何んともいえぬ莫迦莫迦しい腹立たしさを感じたのであった。
(莫迦にしてやがる――)
 中田は、ぶつぶつと悪口《あっこう》を呟《つぶや》きながら、顔をそらすと、ハッキリした当《あて》はないのだが、どうやら駅らしい方へ、どんどん歩き出した。それを見た男は、急に周章《あわ》てたように
『君、君――』
 と後《あと》から呼びかけた。だが中田は、もう返事どころか、振向きもしないで、ずんずん先の方へ歩き続けていた。

      三

 中田は歩きながら、茲《ここ》この頃、ひどく不運つづきの自分自身に、全く愛想がつき果てて思わず大きな溜息を排《は》き出した。
 こんな荒涼とした、人っ子一人見えぬ、冬の暮れかかる原野で、人もあろうに、狂人の話相手にされるとは――
 あ、そういえば、今あの男は、病院から看護人の隙《すき》を窺《うかが》って、遁げて来たんだといっていた――すると……。
 中田はどうやら、この荒涼たる原が、どの辺だかを、朧気《おぼろげ》ながら想像することが出来てきた。彼の考えでは、ここは確かK――電車の沿線、松沢駅から程遠からぬ多摩川よりの所ではないか、というのであった。なぜならば、そう考えると、その附近にはあのK――という有名な精神病院がある筈だからである――。
 中田が、やっとここまで考えて来た時、グッと肩を引き戻されたと同時に、耳元であの狂人の言葉を聞いた。
『君、君、遁げなくてもいいだろう――、も少し話そうよ』
『あ』
(了《しま》った――)
 中田は、押えられた手の下の肩に、気味のわるい汗を感じた。自分ではどんどん歩いていた積りであったが、いつの間にかぼんやりとした頭は、考えることに気をとられて、又ぶらりぶらりと歩いているところを、追いつかれてしまったものであろう。ああ俺は、なんという間の抜けた、だらしのない人間なのだ。
 中田にはもう腹立たしさを感ずる前に
(どうでもなれ)
 という棄鉢《すてばち》な気持が発生《わい》て来た――その中には、多分、この辺がやっと見当のついて来た安堵もあったろうが――。
『よし、君の話を聞いてやろう』
 中田と、その男とは漸《ようや》く、荒れ寂《さび》れた原を抜けて、すっかり落葉してしまった雑木林にかかっていた。
『まあ、少し休みましょうや』
 その男はこういうと、降り積った落葉《おちば》を、ガサガサとくだきながら、腰を下ろした。それを見た中田も、急に今日一日の疲労を感じて、投げ出すように腰を下ろすと外套を透《とお》して尻の下の落葉がカサカサと妙に乾燥した音を立てながらくだけるのを感じた。
 中田は、見るともなく周囲へ懶《もの》ぐさい目を投げた。
 暗灰色の密雲《みつうん》は、みっしりと空を罩《こ》め、褪色《たいしょく》した水彩画のようなあたりには「豊さ」というものは寸分も見出せなかった。木々の小枝に到るまでキンと尖鋭した冷たさと、淋しさを持って顫《ふる》えているのであった。
 そして何者も生気をもたぬ地上では、一個の狂人と、一個の失意に歪《ゆが》められた男とが、黙って向き合っているのだ。
(何か不吉なことが起りはしないか)
 そんな気が、何処ともなく漂っているように感じられるのであった。

      四

『僕は――』
 到頭《とうとう》その男が、暫くの沈黙を破って、話し出した。
『僕は、人殺しをしたんですよ。だけど誤解しないで下さい、僕は人殺しをした事を悔んでいるんじゃありません――これは寧《むし》ろ得々としてあなたにお話できる事です、然《しか》しです。まあ聞いて下さい。私は一昨日、銀座の大通りで人殺しをしたんですが――』
 中田は、思わずグッと身を固めると、忙しく頭を働かせた。だが中田の記憶がたしかならば、一昨日は銀座で、そんな事件があった筈はなかった、――なぜならばそんな事件があれば、屹度《きっと》新聞に、デカデカと報道されるに違いないし、又雑誌記者という職掌柄、そんな記事を見遁《みのが》すはずもないからである。――矢張り気違いだな、中田はそう思った儘《まま》、その話を聞き続けた。
『――それで、僕は一昨日家へ帰ってから、あんまり愉快だったもんですから、大声で、銀座の人殺しを吹聴したもんですから、莫迦《ばか》な奴等に無理矢理、押えつけられた、と、思ったらあの病院にはいっていたんですがね――まあ、そんな事はいいとして――その人殺しの模様をお話しましょう……』
 中田は聞くともなく聞き続けている中《うち》に、宿酔の頭は妙に縺《もつ》れ、また自分がそこいらを、ひょこりひょこりと歩き廻っているような気がしたりバカに咽喉《のど》が乾くと呟いてみたり、或《あるい》は又、重なり合い折れ朽《くち》ている雑草の上を黝《く》すんだ空気が、飄々《ひょうひょう》と流れ、彷徨《さまよ》うのを鈍い目で追跡し、ヤッと手を伸ばせば、その朽草《くちくさ》の下の、月の破片《かけら》が、とれるのではないか――と思われるのであった……
 だが、その男の「短刀」という言葉に、フト話しの続きに呼び戻された。
『――僕は思わず持っ
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蘭 郁二郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング