ていた短刀を握りしめたのです。しばらくすると、あいつ[#「あいつ」に傍点]到頭《とうとう》、濡れた雑巾のようにくしゃくしゃになって死んで仕舞ったんです。その時の気持、それはなんといったら言い表わすことが出来ましょう。僕はこの瞬間、思わず頭のクラクラする恍惚感を感じたのです。真赤な血の海の中をひくひくと動く蒼白な肌の色は何人《なんびと》も描くことの出来ない美の極地ですね』
こういって、その男は、軽く一息ついた。そして腐った無花果《いちじく》のような赤黒い唇を一寸舐め、中田の顔を覗き込んで、ふ、ふ、ふ、と小さく笑うのであった。
中田は思わず感じたゾクンとしたものを押隠そうとして、周章《あわて》て
『君、君はいつも短刀を持っているのかい』
『持っていますよ。人殺しは短刀に限ります。ピストルなんかで遠くからやったんじゃ、ちっとも感じが出ませんや、ぬめり[#「ぬめり」に傍点]とする肌にこれ[#「これ」に傍点]が喰い込んで行く時の快感が僕をぞくぞくさせるんです――』
その男は中田の目の前に、何処に持っていたのか、一|振《ふり》の短刀を突き出したのだ。
この悪に麻痺《まひ》した狂人が短刀を持っている――それは中田に取って、恐るべき事実であった。中田は思わず飛び立って遁げだそうとした。
だが、失恋というものが、こんなにも感傷的な気持を誘うものだろうか――中田は今、沁々《しみじみ》とそれを体験した。
『何をいいやがる、殺せるものなら殺してみろ』
中田は思い切り大声で呶鳴《どな》った、然し、それは妙にかすれた、うわずった声であった。
『何、僕では殺せないというのか』
狂人は短刀をしっか[#「しっか」に傍点]と持ちなおした。そして、よろよろと立ち上ると、もう二つの影はもつれ始めているのであった。
――やっと持ちこたえていた暗灰色の空からは、もうまち切れぬように、身を切るような霙《みぞれ》が荒涼たる原一面を覆って、しょぼしょぼと降り出して来た。折れ朽た雑草に、積り古《ふ》りた落葉に、霙の解け滲《にじ》む陰惨な音は、荒れ果てた曠野一面に響くかと思われた。そしてまた、薄黒い北風が、なお一層激しく吹きつのって来た……
×
翌日はうらうらとした小春日和が、なごやかに訪れて来た。新聞の朝刊には「失恋自殺」と題して中田の死が、彼の最後の感傷を裏切って、たった二三行で簡単に片付られていた。――これは多分彼女銀子の眼にふれなかったことであろう――
底本:「怪奇探偵小説名作選7 蘭郁二郎集 魔像」ちくま文庫、筑摩書房
2003(平成5)年6月10日第1刷発行
初出:「秋田魁新報夕刊」
1935(昭和10)年1月23〜26日
入力:門田裕志
校正:川山隆
2006年11月13日作成
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