方へ、どんどん歩き出した。それを見た男は、急に周章《あわ》てたように
『君、君――』
 と後《あと》から呼びかけた。だが中田は、もう返事どころか、振向きもしないで、ずんずん先の方へ歩き続けていた。

      三

 中田は歩きながら、茲《ここ》この頃、ひどく不運つづきの自分自身に、全く愛想がつき果てて思わず大きな溜息を排《は》き出した。
 こんな荒涼とした、人っ子一人見えぬ、冬の暮れかかる原野で、人もあろうに、狂人の話相手にされるとは――
 あ、そういえば、今あの男は、病院から看護人の隙《すき》を窺《うかが》って、遁げて来たんだといっていた――すると……。
 中田はどうやら、この荒涼たる原が、どの辺だかを、朧気《おぼろげ》ながら想像することが出来てきた。彼の考えでは、ここは確かK――電車の沿線、松沢駅から程遠からぬ多摩川よりの所ではないか、というのであった。なぜならば、そう考えると、その附近にはあのK――という有名な精神病院がある筈だからである――。
 中田が、やっとここまで考えて来た時、グッと肩を引き戻されたと同時に、耳元であの狂人の言葉を聞いた。
『君、君、遁げなくてもいいだろう――、も少し話そうよ』
『あ』
(了《しま》った――)
 中田は、押えられた手の下の肩に、気味のわるい汗を感じた。自分ではどんどん歩いていた積りであったが、いつの間にかぼんやりとした頭は、考えることに気をとられて、又ぶらりぶらりと歩いているところを、追いつかれてしまったものであろう。ああ俺は、なんという間の抜けた、だらしのない人間なのだ。
 中田にはもう腹立たしさを感ずる前に
(どうでもなれ)
 という棄鉢《すてばち》な気持が発生《わい》て来た――その中には、多分、この辺がやっと見当のついて来た安堵もあったろうが――。
『よし、君の話を聞いてやろう』
 中田と、その男とは漸《ようや》く、荒れ寂《さび》れた原を抜けて、すっかり落葉してしまった雑木林にかかっていた。
『まあ、少し休みましょうや』
 その男はこういうと、降り積った落葉《おちば》を、ガサガサとくだきながら、腰を下ろした。それを見た中田も、急に今日一日の疲労を感じて、投げ出すように腰を下ろすと外套を透《とお》して尻の下の落葉がカサカサと妙に乾燥した音を立てながらくだけるのを感じた。
 中田は、見るともなく周囲へ懶《もの》ぐさい
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