目を投げた。
 暗灰色の密雲《みつうん》は、みっしりと空を罩《こ》め、褪色《たいしょく》した水彩画のようなあたりには「豊さ」というものは寸分も見出せなかった。木々の小枝に到るまでキンと尖鋭した冷たさと、淋しさを持って顫《ふる》えているのであった。
 そして何者も生気をもたぬ地上では、一個の狂人と、一個の失意に歪《ゆが》められた男とが、黙って向き合っているのだ。
(何か不吉なことが起りはしないか)
 そんな気が、何処ともなく漂っているように感じられるのであった。

      四

『僕は――』
 到頭《とうとう》その男が、暫くの沈黙を破って、話し出した。
『僕は、人殺しをしたんですよ。だけど誤解しないで下さい、僕は人殺しをした事を悔んでいるんじゃありません――これは寧《むし》ろ得々としてあなたにお話できる事です、然《しか》しです。まあ聞いて下さい。私は一昨日、銀座の大通りで人殺しをしたんですが――』
 中田は、思わずグッと身を固めると、忙しく頭を働かせた。だが中田の記憶がたしかならば、一昨日は銀座で、そんな事件があった筈はなかった、――なぜならばそんな事件があれば、屹度《きっと》新聞に、デカデカと報道されるに違いないし、又雑誌記者という職掌柄、そんな記事を見遁《みのが》すはずもないからである。――矢張り気違いだな、中田はそう思った儘《まま》、その話を聞き続けた。
『――それで、僕は一昨日家へ帰ってから、あんまり愉快だったもんですから、大声で、銀座の人殺しを吹聴したもんですから、莫迦《ばか》な奴等に無理矢理、押えつけられた、と、思ったらあの病院にはいっていたんですがね――まあ、そんな事はいいとして――その人殺しの模様をお話しましょう……』
 中田は聞くともなく聞き続けている中《うち》に、宿酔の頭は妙に縺《もつ》れ、また自分がそこいらを、ひょこりひょこりと歩き廻っているような気がしたりバカに咽喉《のど》が乾くと呟いてみたり、或《あるい》は又、重なり合い折れ朽《くち》ている雑草の上を黝《く》すんだ空気が、飄々《ひょうひょう》と流れ、彷徨《さまよ》うのを鈍い目で追跡し、ヤッと手を伸ばせば、その朽草《くちくさ》の下の、月の破片《かけら》が、とれるのではないか――と思われるのであった……
 だが、その男の「短刀」という言葉に、フト話しの続きに呼び戻された。
『――僕は思わず持っ
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