暗澹《あんたん》たる夜《よ》の帷《とばり》に覆われるのも、もうさして長い時間がかかろうとは思われなかった。
 中田は淡い後悔と伴に、なんともいえぬ苛立《いらだ》たしさを感じてきた、そして、ついに語気を強めて、その男に訊きかけた。
『君。一体何処へ行くんだ、駅はまだなのか』
 その男は、きょとん[#「きょとん」に傍点]と、中田の顔を見返して
『駅? 駅へ行ってどうするんですか』
『駅へ行って、帰るんじゃないか、この寒いのに僕をどこへ連れて行こうというんだ』
『そうですか、私はまた、あなたが僕の話を聞いてくれるというんで、非常に嬉しかったんですがねェ。誰も僕の話を聞いてくれないんですからね、どうですいい景色じゃありませんか。も少し一緒に歩きましょうよ』
『莫迦《ばか》な、君は一体気違いなのか』
 中田は思わず腹立ちまぎれに怒鳴った。
『気違い?』
 その男は気違いといわれると、急に眼に妖しい光を浮べながら
『誰でも僕のことを気違いというんですよ。世の中なんて利己的な奴ばかりだ』
 彼は如何《いか》にも慨嘆《がいたん》に堪えない、というような顔色をみせた。そして
『それどころか僕を、到頭《とうとう》犯罪狂だといって、気違い病院へたたき込んだんです。……屹度《きっと》あいつらの仕業《しわざ》なんだがね……それが昨日ですよ。だけど現に気違いでない僕には、到底あんなところにいられませんよ。だから今朝看護人の隙《すき》を見て遁《に》げだして来たんです、ざまあみやがれだ』
 その男はそういうと、如何にも可笑《おかし》そうに、不遠慮な大声を上げて笑い出したのであった。
 その不規則な狂人の笑い声を聞くと同時に、中田は、後頭部にスーッとしたものを感じ、先《さ》っきから何かしら得体の知れぬ、不思議な戦慄の原因が、やっと解ってきたように思われた。
 何という莫迦なことをしたのであろう、中田はそう思った。例え失望と無茶酒で、頭が平衡を失っていたとはいえ、俺はこの気違いと一緒に、何時間かの間この荒野を彷徨《さま》よい、狂人の奇怪な幻想の数々を、如何にも感心しながら聞いていたのか、と思うと何んともいえぬ莫迦莫迦しい腹立たしさを感じたのであった。
(莫迦にしてやがる――)
 中田は、ぶつぶつと悪口《あっこう》を呟《つぶや》きながら、顔をそらすと、ハッキリした当《あて》はないのだが、どうやら駅らしい
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