宇宙爆撃
蘭郁二郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)外《そ》らす

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]《あぶ》
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       一

 所長の発表が終ると、文字通り急霰のような拍手がまき起った。
 その中でただ一人木曾礼二郎だけが、呆然とした顔つきで、拍手をするでもなく、頬をほころばすでもなく、気抜けのように突立っていた。
「おい、木曾君――」
 ぽんと肩を叩かれて、はっと気がつくと、すでに研究所の中庭にあつめられていた所員たちの姿は、ほとんど去りかけていた。勿論、いつの間にか壇上の老所長の姿も消えてしまっている。
「どうしたんだ、ばかにぼんやりしてるじゃないか」
「……いやあ」
「はっは、腐ってるんだな、わかるよ、腐るな腐るな」
「いやあ、何も……」
「ふっふっふ、いいじゃないか、希望を持て希望を――、何も今度ぽっきり[#「ぽっきり」に傍点]のことじゃないんだからな、きっと俺たちも行くようになるぜ」
 肩を叩いた長田が、慰めるような眼で、木曾の顔を覗込んだ。木曾は、その眼から顔を外《そ》らすと、
「そんなことじゃない」
「そんなことじゃないって――、じゃあ何んだね、何んにもないじゃないか、そんなにスネるもんじゃないぜ、そんなに行きたけりゃ、所長の方へ申出て置けよ、俺は早速申出るつもりだ」
「ふむ……」
「君の分も、申込んで置こうか」
「いや、いいよ」
 木曾は、はげしくかぶりを振ると、思い出したように歩き出した。
「――いいよ、自分のことは自分でする」
 研究所の中庭の、杜鵑花《さつき》の咲いているコンクリートの池を廻って、すたすたと自分の室に帰って行った。親切にいってくれた長田には済まないようだけれど、木曾は、とても話をするのでさえおっくう[#「おっくう」に傍点]だった。早く独りになって、眼をつぶって見たかった。
 実験室はガランとして部屋の者は誰もまだ帰っていなかった。いまの所長の発表に、所員たちはきっと其処此処に一かたまりずつになって、噂の花を咲かせているのであろう。おそらく今日一日は、誰も仕事が手につくまい――。木曾は、その誰もいない実験室を横眼で見ると、頬を歪めたまま通り抜けた。そして隣りの自分の部屋のドアーを、突飛ばすようにして潜《くぐ》り、デスクの前の廻転椅子にドサリと腰をおろした。デスクに肘をのせ、頭を抱《かか》えるようにして眼をつぶると、外庭の植込みの方で何やら話しあっている所員たちの弾んだ話声が途切れ途切れに聞えていた。
「あの、どうかなさったんですか、木曾さん……」
「エ?」
 誰もいないと思っていた木曾は、その突然の声に、ぎょっとして振り向いた。
「ご気分でも……」
 そういって、心持ちくびをかしげ、細い眉をしかめて立っていたのは、思いがけなかった助手の石井みち子だった。
「なんだ、石井さんがここにいたのか……、今の、所長の話を聞いたかね」
「えっ」
「あ、そうそう、石井さんも行く方《ほう》だったね」
「はあ――、でも私なんかに勤まりますかしら」
「大丈夫だよ、あんた[#「あんた」に傍点]ならきっとしっかりやってくれる……、あんた[#「あんた」に傍点]に行かれるのは残念だけれど、しかしまあそんなことはいってられないからね」
「……でも、木曾さんはいらっしゃいませんのね、どうしたんでしょう」
「いやあ僕なんか……、留守軍だよ、僕の分もしっかりやって来て下さい、いや、やって来て下さいじゃない、やって下さい、だ。一寸出張のようなつもりでは困る、業績のためには骨を埋めるつもりで行って貰いたいっていってたからね、所長が―、はっは」
 木曾ははじめて、しかし空《うつ》ろな声で笑って見せた。

       二

「でも、ボルネオとはまさか私――。どうしてボルネオなんかにこの研究所のほとんど半分も移してしまうんでしょうかしら」
 石井みち子は、実験室用の白衣を着ると、すんなりと伸びた脚《あし》を揃えたまま、椅子に腰をおろしていた。女学校を卒《で》て、まだ二年ほどしか経《た》っていないみち子は、磁気学研究所木曾実験室助手などという肩書が、どうも似合わしからぬほど、襟筋のあたりに幼ない色が残っていた。それもその筈で、みち子の兄の僚一が本当の助手だったのだけれど、二年前に軍務についてから、始終行き来していた木曾のすすめで丁度学校を卒《で》たばかりのみち子が、この実験室のこまごまとした用事の手助けに来ている中に、いつしかすっかり一通りの実験の仕方も覚えてしまって、今では結構助手さんで通っているのだった。
「ふーん、ボルネオ行きのことかい、そりゃさっき所長も一寸いっていたように、つまりこの研究所のような、磁気学研究所といったものは、地球磁力の影響の尠いところがのぞましい、といって地球上では地球磁力の作用しないというところはないんだから、結局南北極から一番離れた、その両極の中間にある赤道地帯がよかろう、ということになるんだね、あんた[#「あんた」に傍点]も知っているだろう、一つの棒磁石があるとその両方の端が一番磁力が強い、真ン中はその両端に比べれば、ほとんど磁力がないといってもいい、両方が釣り合ってしまっているんだ、地球も形は丸いが、一つの丸い磁石だといっていいから赤道のあたりが一番両方の力の釣合っているところだね、勿論地球の北極と南極は、地図の上の極の位置とは違って、年中ふらふら動き廻っているんだから、――丁度、廻っている独楽《こま》の心棒の先きが、きちんと止っていずにふらふらするように――だから赤道が必ず真ン中だとはいえないけれど、しかしこの辺に比べたらずっとずっと平衡しているわけだ」
「東京と、そんなに違うでしょうかしら」
「違うね、第一そうだろう、東京あたりで磁石針の止ったところを横から見ると、きっと北を指している方が、下っている、決して平らではないんだ、これは東京が南極から離れて北極に近よっているために、北極の力を余計に受けているからだね、しかもこれはもっと北に行くほどひどくなって来て、北極に行ってしまえば磁石針の針は北を下にして突立ってしまうに違いない――、まあこれは激しい例だけれど、とにかく磁石針にすら地球磁力の差がはっきりと現われる場所では、それだけ僕たちの実験にも地球磁力の影響というものが加わっているということを考えなけりゃいけない、そんな意味でこの磁気学研究所の分身が、赤道直下にあるボルネオのポンチャナクから少し溯《さかのぼ》った上流に作られるというのは実に、寧ろ当然であるといってもいいじゃないかね」
「そうですわね、でも、何も知らない人から見ると、こんなジミな研究所まで南方熱に浮かされたように思われませんかしら……」
「はっはっは、まあそう思う者には思わせといてもいいさ、要するに南に行っただけの業績をあげればいいんだからね」
「ええ、でも木曾さんにまでそう仰言《おっしゃ》られると、なんだかこう、身動きも出来ないものを背負わされたような気がしますわ」
 石井みち子の真剣な顔を見ると、木曾は、微笑を返さずにはいられなかった。
 このボルネオ研究支所のことについては、かねてから所長から内々の相談があったことだし、支所行きの人選まで木曾が案を作った経緯《いきさつ》があったのに、いざ、発表されて見ると、木曾の案がそのまま用いられておりながら、肝腎の木曾自身が、どうしたことかその選に洩れているのである。木曾が呆然としてしまったのは、そのためだった。なんだか自分だけが、除《の》け者にされたような激しい失意に、一瞬、打ちのめされてしまったのだった。
 木曾は、新設のボルネオ支所で思い切り仕事がして見たいと、内心はりきっていたのである。そのために、人選については実験室からでも精鋭をすぐって置いたつもりである――、が、それが今は全く裏切られてしまったのだ。木曾は中庭を横切って自分の室まで帰って来るのに、まるで夢のような気持だった。自分の、この研究所に於いての仕事というものに、ここで終止符を打たれたような、何んともいえぬ落莫たる気持であった。
 しかし流石に、石井みち子を前に置いて、ひどく取乱したところを見せぬだけは、やっと落着きを持ちこたえていた。いや実は相当顔にも出ていたのであろうが、突然「ボルネオに行く」と申し渡されて昂奮に取りつかれていたみち子に、ただ気づかれぬだけだったのかも知れない――。そして木曾は、あの親友僚一によく似た貌《かお》立ちのみち子が、いつになく上気した顔を真正面に向けているのを見ると、却って、やっと自然に微笑が浮ぶほど、落着きを取り戻して来た。
「木曾さん、所長が呼んでますよ――」
 遽《あわた》だしくはいって来た助手の村尾健治が、ドアーを開けながら、いつになく弾んだ声でいった。
「ああ、そう――。村尾君もボルネオ行きだったね」
「はあ、お蔭様で……」
 村尾もまた、どう怺《こら》えても込上《こみあが》って来てしまうらしい微笑を、口のへりに顫《ふる》わせていた。
「まあ、しっかりやってくれたまえよ、石井さんも行くんだ、よろしく頼むよ」
「はあ、あの……」
「はっは」
 木曾は、笑った自分の頬が、ひくりと痙攣したのであわてて立上った。そして顔を外向けるようにしてドアーを潜《くぐ》って行った。

       三

 ――今度のボルネオ支所開設のために色々手配してくれたことは感謝するよ、しかし君がここに止《とど》まることになったからといって、そういう風に取られては困るんだがね、例えば長田君なんかも自分が加わっていないことだいぶ不満に思っていたようだったけれど、しかしここの研究所を空《から》にしてしまって皆んな支所へ行ってしまうというのはどうだろう――
 老所長は、窓から射込んで来る陽射しに、銀髪をきらきらと輝かせながら、そういう風に話していた。
 ――支所はあくまでも支所だ、一応精鋭をすぐって行くことは当然だけれど、しかしだからといって全部行ってしまっては困る、昭南島がいかに便利だとはいっても東京をそこに移すわけにはいかんようにね、東京は地理的には少し遠くはあっても、矢張りここで大東亜に号令すべきところだからね、同じことさ、ボルネオ支所にしたって実験的にはここよりも便利かも知れない、いや便利だからこそあそこを選んだんだが、しかし総括的な業績は、矢張り磁気学研究所としてここで号令し纏めなければならんと思うね、そのためには君とか長田君といったような人まで行ってしまうことはどうだろう、勿論出張は差支ない、事情の許すかぎりどんどん行って貰うつもりだ。大東亜の中心は矢張り東京だ、誰でも知っているそれだけのことさ――
 老所長の話は、大体そんなことだった。木曾は、ていよく祭り上げられた恰好で、なんとなく頷いてしまったのである。
 しかし時間が経つにつれて、木曾は自分がここに残ることになったについて、何故あんなにも呆然自失したのか、ということを考えて見る余裕も出来て来た。果してそれは本当に実験への情熱を裏切られただけだったろうか、それとも、ただ未だ見ぬ土地というものへの漠然とした憧れであったのか――、それが自分でもはっきりわからなくなって来た。実験ならここでも今までに相当なことはして来たつもりだ、しかも西欧科学と遮断されている今日、好条件の場所で、気鋭の者たちのあげるボルネオ支所の業績は、そのまま絶好の競争者を得た励みとして感じられぬこともないではないか。面白い――。
 磁気学研究所実験室主任木曾礼二郎は、時と日が経つにつれて、やっと元気を取り戻して来た。
「所長もいっていたがね、同じ赤道直下の場所でも、なぜボルネオを選んだかというとね、東漸して来た西欧文明は先ずジャバ島に上陸した、そしてジャバ島を殆んど西欧化して東印度で一番の開発された島としたんだ、そしてなおも東漸しようとしたがボルネオはまだ本当に手
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