虻[#「虻」は「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]の囁き
――肺病の唄――
蘭郁二郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)暁風《あさかぜ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)青木|雄麗《ゆうれい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]
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     一、暁方は森の匂いがする

 六月の爽やかな暁風《あさかぜ》が、私の微動もしない頬を撫《なで》た。私はサッキから眼を覚ましているのである。
 この湘南の「海浜サナトリウム」の全景は、しずしずと今、初夏の光芒の中に、露出されようとしている。
 耳を、ジーッと澄ましても、何んの音もしない。向うの崖に亭々《ていてい》と聳える松の枝は、無言でゆれている。黄ばんだ白絹のカーテンはまるで立登るけむり[#「けむり」に傍点]か海草のように、ゆったりと、これまた音もなく朝風と戯れている。ただ一つ、あたり一面に、豊満な光線がサンサンと降るような音が聴えるだけだ。
 真白な天井・壁、真白なベッド、真白な影を写したテラテラした床……。
(寝覚めの、溜らない懶《ものう》さ……)
 いつの間にか、又、瞼《まぶた》が合わさると、一年中開けっぱなしの窓から森を、あの深い森を、ずーっと分けて行くような匂いがした。
       ×
 再び眼をあけると、どこか遠くの方で看護婦の立歩く気配がしていた。体をその儘《まま》に、眼の玉だけ動かしてみると、視界の端っこにあった時計が、六時半、を指していた。
 私は、二三回軽く咳込むと、夜の間に溜った執拗《しつっこ》い痰《たん》を、忙しく舌の先きを動かして、ペッ、ペッ、と痰壺へ吐《はき》落し、プーンと立登って来るフォルマリンの匂いを嗅ぎながら注意深く吐落した一塊りの痰を観察すると、やっと安心してベッドに半身を起した。
 ――あいもかわらぬサナトリウムの日課が始まったのである。
 六時起床、検温。七時朝食。九時――十一時(隔日)に診察。十二時検温、昼食。三時まで午睡。三時検温。五時半夕食。八時検温。九時消燈……。
 この外に、なんにもすることがないのであった。恐らくこのサナトリウム建設以前からのしきたり[#「しきたり」に傍点]であるかのように、その日課は確実に繰返されていた。
 私はベッドに半身を起して、窓越しに花壇一杯に咲乱れた、物凄く色鮮やかなダリヤの赤黒い葩《はなびら》を見ながら、体温計を習慣的に脇の下に挟んだ。ヒンヤリとした水銀柱の感触と一緒に、何ヶ月か前の入院の日を思い出した。
 それは、まだ入院したばかりで、何も様子のわからなかった私が、所在なくベッドに寝ていると見習看護婦の雪ちゃんが廻って来て、いきなり脇の下に体温計を突込み、あっと驚いた瞬間、脇毛が二三本からんで抜けて来た時の痛かったこと……雪ちゃんの複雑な呻きに似た声と、パッと赤らんだ顔……
(ふっ、ふっ、ふっ……)
 なんだか、溜らなく可笑《おか》しくなって来て、思わず体がゆれると、体温計の先が脇窩《わきあな》の中を、あっちこっちつつき廻った。
「ご気嫌ね……オハヨウ――」
「え……」
 はっとベッドの上から入口を見ると、同じ病棟のマダム丘子が、歯刷子《はブラシ》を持って笑っていた。
「や、オハヨウ……」
「いい朝ね、ご覧なさいよ、百合が咲いてるわ」
「そう」
 私は体温計を抜くと寝衣《ねまき》の前を掻きあわせながら、水銀柱を透かして見た。
(六度、とちょっと……)
 呟いた。
(気分がいいぞ――)
 足の先でスリッパを捜《さぐ》ってつっかけ[#「つっかけ」に傍点]た。
「どれ――」
「ほら、あんな高いとこよ」
 マダム丘子の透通るような白い腕が、あらわに伸べられて、指の先きに歯刷子がゆれた。
 私は、丘子の透き出た静脈の走る二の腕から、強《し》いて眼をはなして崖を見上げた。
「ほお、なるほど……」
「あの花粉――っていうの魅惑的ね、そう思わない……露に濡れた花粉だの蕊《しべ》だのって、じーっと見てると、こう、なんだか身ぶるいしたくなるわ……ね」
「そお……」
 私は爛熟し切って、却って胸の中がじくじくと腐りはじめたのであろう丘子の、裸心にふれたような気がした。
 マダム丘子はハデなタオルの寝衣を着ていた。それはパジャマではなかったが、断髪の丘子に却って不思議な調和を見せていた。
「お先きに――」
 マダム丘子は光った廊下をスリッパで叩きながら洗面所に消えた。
 私はその寝癖のついた断髪の後姿からヘンなものを感じて、部屋に這入《はい》ると邪慳《じゃけん》に薬台の抽斗《ひきだし》を開け、歯刷子とチューブを掴み出してすぐあとに続いた。
       ×
「お食事です……」
 看護婦が部屋毎に囁いて行った。軽症患者はサン・ルームに並べられた食卓につくのがこのサナトリウムの慣わしであった。それは一人でモソモソと病室で食事するより大勢で話しながら食べた方が食が進むからであった。
「お早よう……」
「や、お早よう……」
 この病棟には患者が階上《うえ》と階下《した》で恰度《ちょうど》十人いたけれど、ここに出て来るのは私を入れて四人であった。それは私と美校を出て朝鮮の中等学校の教師をしている青木|雄麗《ゆうれい》とマダム丘子――病室の入口には白い字で「広沢丘子」と書いてあったけれど、皆んなマダム、マダムと呼んでいた。だが恐らく彼女の良人《おっと》は結核がイヤなのであろう、既《か》つて一度もここに尋ねては来なかった――と、も一人女学校を出たばかりだという諸口《もろぐち》君江の四人であった。
 さて四人が顔を合わすと、第一の話題は誰それさんは少し悪くなったようだとか、熱が出たらしいとか、まるで投機師のように一度一分の熱の上下を真剣に話し合うのであった、そして食事が済んでしまっても、食後の散薬を飲むまでの約三十分間を、この二階のサン・ルームから松の枝越しに望まれる碧《あお》い海の背を見たり、レコードを聞いたり、他愛もない話に過すのであった。その時はマダム丘子の殆んど一人舞台であった。白い、クリーム色に透通った腕を拡げて大仰な話しぶりに一同を圧倒してしまうのだ。
「今日は私も少し熱が出たわ……」
 一わたり雑談をしたあとで、何を思ったのかマダム丘子はそういって、私達を見廻した。
「どして……」
「どうかなさったの――」
 諸口さんは、心配気に訊いた。
「ほっほっほっ、月に一遍、どうも熱っぽくなるの」
「まあ……」
「ほっほっほっ」
 マダム丘子のあけすけな言葉に皆はフッと視線を外《そ》らして冷めたいお茶を啜った。私は青木の顔を偸見《ぬすみみ》ると、彼は額に皺を寄せた儘わざと音を立てて不味《まず》そうにお茶で口を嗽《うが》いしていた。
 青木は、ありふれた形容だけれど鶴のように痩せていた。彼は美校を卒《で》て、朝鮮で教師をしていたのだが、そこで喀血すると、すぐ休暇をとって、来た、というけれど、今はもう殆んど平熱になっていた。彼は朝鮮を立って関釜《かんぷ》を渡ってしまうと、もう見るものが青々として病気なんか癒《なお》ってしまったようだ――だけどまあこの際ゆっくり休んでやるんだ、などと言っていた。
 そして最近は専門の絵の話から、何時《いつ》とはなくマダム丘子の病室にばかり入りびたって、「マダムの肖像画を描くんだ」といっていた。諸口さんはそれについて何かいやあな気持を感じているらしく、そんな素振りを私も感じないではないけれど、私は、
(人のことなんか――)
 とわざと知らん顔をしていた、というのはお察しの通り私は諸口さんが好きであったのだ。で、青木――丘子のコンビがハッキリすればするほど……私もねたましいとは思いながら……それでも却ってあとに残った私と諸口さんの二人が接近するであろう、と、いかにも肺病患者《テーベー》らしい卑劣な利己的な感情を、どこか心の隅にもっていたからである。
       ×
 今日も、食卓が片附られてしまってからも、四人はその儘で話しあっていた。その話は結局私の考えていたように、青木と丘子とが冗談まじりで話合っているのを、私と諸口さんが時々ぽつぽつと受答えする程度であった。
 諸口さんは女学校を出たばかりというから十八九であろうか、花模様の単衣《ひとえ》物に、寝たり起きたりするために兵古《へこ》帯を胸高に締めているのが、いかにも生々《ういうい》しく見え、その可愛いい唇は喀血のあとのように、鮮やかに濡れていて眼は大きな黒眼をもち、その上いかにも腺病質らしい長い睫毛《まつげ》を持っていた。いまはようやく病気も停止期にあるというけれど、消耗熱の名残りであろうか、両頬がかすかに紅潮して、透通った肌と美しい対照を見せていた。
 その生々しい姿と、全然対蹠的なのがマダム丘子であった。爛熟し、妖しきまでに完成された女性には、一種異様な圧倒されるような、アクティヴな力のあることを感じた。私はこの二人の女性から、女性の美というものに二種あることを知った。諸口さんの嫋々《じょうじょう》とした、いってみれば古典的|静謐《せいひつ》の美に対して、マダム丘子のそれは烈々としてすべてを焼きつくす情獄の美鬼を思わせるものであった。
 しかし私は、この二つの美に対して、どちらを主とすることも出来なかった、マダム丘子のその福々とした腕……それは真綿のように頸《くび》をしめ、最後の一滴までの生血を啜《すす》るかのような妖婦的美しさの中にも、又極めて不思議な魅力のあることを、私も否《いな》めなかった。
 だが、ひどく利己的な、その癖極めてお体裁屋の私は、このアクティヴな力を圧倒してまで飛込んで行くことが出来なかった、それで人足先きにマダムへのスタートを切ったらしい青木を、ただニヤニヤと見つめるのであった。そして私は、前いったように、諸口さんの方から自分に接近して来るのを、巣を張った蜘蛛のように、ジーッと、そのくせ表《うわ》べは知らん顔をして待っていたのであった……。
       ×
 深閑として、午前の陽を受けている。このサナトリウムに沁みわたるように鐘が鳴った。九時、診察の知らせである。この病院では軽症患者は医局まで診察を受けに行くのが慣わしであった。
 鐘が鳴ると、そこここの病棟から廊下伝いに、或は遊歩道の芝生《ローン》を越えて集って来た患者が、狭い待合室の椅子に並んで、順番を待っていた、第三病棟からは私を入れて例の四人だけが廊下伝いに行くのだ。
 広い廊下の片側にずらりと並んだ病室の中には、老いも若きも、男も女も、様々な患者が、ジーッと白い天井を見つめていた。その人たちは私達が歩いて医局まで診察を受けに行くのを、さも羨《うらやま》しそうに、眼の玉だけで見えなくなるまで見送るのであった。マダム丘子は、そんな時、わざと活溌に廊下を歩き、「オハヨウー」と大きな声で看護婦や、顔見知りの患者に呼びかけるのだ。
 医局に行ってみると、もう四五人の人が来ていて、銘々肌ぬぎになって順を待っていた。
「どうぞ……」
「そう、じゃお先きに……」
 マダム丘子は、するっと衣紋《えもん》を抜いて、副院長の前の椅子にかけた。
「いかがです」
「別に……」
 きまり切った会話しかなかった。成河《なりかわ》副院長は、懶《ものう》げにカルテを流し見て聴診器を耳に差込んだ。
 何気なくその動作を、ぼんやり見ていた私は、その時、はっと、息をのんだのだ。
 今日は場所の加減かマダムの上半身の裸像が目の前にあり、挑発するようにクローズアップされたその丘子の胸は結核患者《テーベー》とは思われぬほど、逞しい隆起を持っていた。体全体露を含んだクリーム色の絹で覆われているのではないか、と思われるほど、キメの細かい柔らかな皮膚であった、その上、逆光線のせいか、私のいるところからは恰度その乳房一面に、金糸のような毳毛《うぶげ》が生えてい、両の隆起の真ン
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