中には、柔らかな翳《かげ》を持った溝が、悪魔の巣のように走り凹《くぼ》んでいるのが、これ見よがしに眺められた。私は気のせいか視線がすーっと萎縮するのを感じて、あわてて二三度瞬きをした。その時、隣りに掛けていた青木の、荒い息吹きをも感じた。
       ×
 診察がすむと、私たち四人はその儘、横臥場へ行った。横臥場はサナトリウムのはしにあって、ポプラだの藤だのの下に葦簾《よしず》を張り、横臥椅子をずらりと並べてあった。そこに横になると、恰度目の前にサナトリウムの赤い屋根が、初夏の澄みきった蒼空をバックに、極めて鮮やかに浮出して見えるのであった。
 私達はしばらくそこで目を潰《つぶ》っていた、目をつぶると、まるでここが深海の底でもあるかのように、何んの音もしなかった。ごくまれに、むくむくと太った※[#「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]《あぶ》が、鈍い羽音を響かせながら、もう結実しかけた藤の下を、迷い飛ぶ位のものであった。南風が潮の香をのせてやって来た、それは青々とした海原の風であった。
 ……暫らく目をつぶっていると、フトどこかで忍び笑うような気がした。眼だけ動かしてみると、隣りの椅子に寝ていた諸口さんが、空を見上げながら、何か、思い出し笑のような、擽《くす》ぐったげな、それでいてどこかで私も経験したような、妙に歪んだ笑い顔を、むりに堪《こら》えているのであった。
(おや)
 と思った私は、その儘、眼で彼女の視線を追ってみた。彼女の視線は赤い屋根に突当ってしまった。
(ヘンダナ……)
 と思いながらもう一度彼女の視線を追った私は、ハッとするものに突あたった、そして思わずしげしげとそれを見つめたのである。
 それは赤い屋根の上、蒼空の中に、大きく浮んだ真白い入道雲であった。むくむくとよじれ登るようなその入道雲は、想像も出来ないような、妙な形を造っていた。
 私は諸口さんの忍び笑いの意味がハッキリわかると一緒に、この物静かな、何気ないような肺病娘にも、マダム丘子と似た血潮の流れているのを知って、フトいやあな気持になった。
「エヘン」
 私はわざと横を向いて咳払いをすると、
「諸口さん、いい天気ですね……あの雲なんかまるでクリーニングされた脱脂綿みたいに白いですね」
「まあ、いやだ脱脂綿みたいだなんて、そんなこと、いうもんじゃないわよ」
 彼女は、あの歪めた顔を、いつの間にかとりすまして、ツン、と蔑《さげす》むようにいった。
 私は、
(ふふん……)
 と口の中で嗤《わら》いながら、それでも真紅なダリヤの影が映ったのか、心もち紅潮して見える彼女の横顔を、却っていつもより美しいなと思った。
 心もち上半身を起してみると、諸口さんの向うにマダム、その横臥椅子にぴったり寄りそうように青木の痩せた体をのせた椅子があった。二人とも目をつぶっていた。マダム丘子のツンと高い鼻の背に、露のような汗が載ってい、無闇やたらに明るい太陽が、あたり一面、陽炎《かげろう》のようにゆれていた。
 ギーッと椅子がきしむと諸口さんも半身を起して、私の方に伸びながら、小さい声でいうのであった。
「あたし……なんだか心配になっちまったの……」
「なにが……」
「なにって……段々体が悪くなりそうで……ほんとよ……今にも急に熱が出そうな気がして仕様がないのよ……」
「バカな……そんな心配が熱を出すモトさ……あまりヒマだからだよ、そんなことを考えるより入道雲を見て、勝手な想像をした方が、ずっと体のためだぜ……」
「まア……」
 彼女は一瞬びっくりしたような、堅い笑いを浮べたが、
「ひとが悪いわね……」
 耳朶《みみたぼ》の辺りのおくれ髪を掻き上げながら軽く睨んだ。
「ははは、……どんなことを考えていたの……」
「……マダムと青木さんのことよ……あんた知ってる」
「何を――」
「あら、知らないの、暢気《のんき》ね」
「仲がいいってことかい」
「その位だったら、皆んな知ってるわ」
「ふん、じゃなんかあんのかい」
「……まアね……あっちへ行きましょう――」
 諸口さんは音をたてぬように、椅子から下りると芝生《ローン》を踏んで、池の方に行った。私もそっと立つと、横目でマダムと青木のうつらうつらしているのを確め、すぐあとに続いた。
 池にはもう水蓮が蕾《つぼみ》を持ってい、ところどころに麩《ふ》のような綿雲の影が流れていた。
「あれ――って何さ」
「あのね……夜になると……消燈が過ぎてからよ……青木さんがマダムのとこに来るのよ……」
「ふーん」
「そしてね……何すると思って――」
「絵を描きに行くのよ、肌に絵を描きに……つまり、刺青《いれずみ》をしによ……」
「まさか――」
「あら、ほんとよ、だって私の部屋マダムの隣りでしょう、よくわかんの」
「だって、刺青したらすぐ解るだろうに、診察の時……」
「それはところ[#「ところ」に傍点]によるわ……」
「成るほどね、……だけどなんの為に――」
「あらやだ、あたしそんなこと知らないわよ、だって壁越しですもの……」
「ふーん」
「……とっても、親しそうだわ……」
 諸口さんは欠伸《あくび》をするように、口へ手をあてた。
「ふーん」
 この話を聞いている中《うち》に、私はまだ既《か》つて経験したことのない、激しい不愉快さを覚えた。これが嫉妬であろうか、虫酸《むしず》の走る、じっとしていられないいやあな[#「いやあな」に傍点]感じであった。――考えてみれば私は左程マダムに興味は持っていなかった筈だ、それがどうしたことかこの話を聞くと同時に、青木に対して燃上るような反感を感じて来た。
 私は鳩尾《みぞおち》の辺りが、キューっと締って来るのを感じた。そして、
(アンナ青木《やつ》に……)
 と思うと、胸の鼓動がドキドキと昂《たか》まって来るのであった……。
 その時、重々しく正午の鐘が鳴った。
 ふっ、と気がつくと、遠くの病棟の窓から看護婦が、
(お食事ですよ――)
 というように、口を動かしながら手を振っているのが見えた。

     二、真昼は向日葵《ひまわり》の匂いがする

 私は食事中、フト気がつくと視線が丘子の方に向いているのであった。見まい、としても諸口さんから聞いた刺青のことが気になって、つい丘子の一挙一動に気を奪われてしまうのであった。
 暑くなったせいか、近頃メッキリ食慾のないらしい丘子は、うるんだような瞳をして食卓に肘をついていた、そして突然、何を思ったのか「ユーモレスク」の一節を唄い出したのであった。

[#ここから2字下げ]
月の吐息か 仄かな調《しらべ》は
闇をば流れ来て 侘《わび》しいこの身の
悶《もだ》ゆる心に 響け 調よ。
密やかに慕寄る 慰めの唄
されど尚人知れず 泪《なみだ》さそう詩よ
[#ここで字下げ終わり]

 唄いながら、彼女の眼は妖しく光って来た。不思議なことに、泪を泛《うか》べているのかも知れない。
「ねえこの唄どう思って……」
「どうって……」
「あたし、この唄青木さんから教わったんだけど、『肺病の唄』だと思うわ」
「その文句ですか」
 私はそのあまり突飛な言葉に、呆気にとられて訊いた。
「いいえ、――それもだけど――このメロディよ、ね、よく聞いて御覧なさいよ、あの体温表のカーヴとこのメロディと、ぴったり[#「ぴったり」に傍点]合うじゃないの、高低抑揚が、恰度あの波形の体温と吃驚《びっくり》するほど、ピッタリ合うじゃないの……」
「そう……そういえば成るほど……」
「あたし、この唄、唄うと、とても怖いの……だって
[#ここから2字下げ]
密やかに慕寄る 慰めの唄
[#ここで字下げ終わり]
 っていうところに来ると、急に調子が上るんですもん……熱でいえば四十度位になるんだわ……恰度あたしその高くなるところに来たような気がするの、きっと今にも熱がぐんぐん上るわ……」
 こういってマダム丘子は、いつもの朗らかさに似合わぬ、荒涼とした淋しさを、美しい顔一杯に漾《ただよ》わすのであった。
(なァに、いくらか体の変調のせいだろうさ……)
 と思いながらも、私自身、ついその気味の悪い唄を口吟《くちずさ》んでいた。成る程、その楽譜に踊るお玉杓子《たまじゃくし》のカーヴは正弦波《サインカーヴ》となって、体温表《カルテ》のカーヴと甚しい近似形をなしていた。
 結核患者《テーベー》の妄想的不安と思いながらも、ハッキリ否定することの出来ぬこの患者独特の潜在恐怖と、極めて尖鋭された神経の痙攣を半ば不安な気持で、じっと見詰めているより仕方がなかった。
 この麗魔のように思われていたマダム丘子にも、こんな末梢神経的な、それでいて、居ても立ってもいられない恐怖を持っているのかと思うと、既《か》つて考えても見なかった可憐な女性を、そこに感ずるのであった。
 青木も、諸口さんも黙っていた、しかし皆の胸の中には一勢に、あの平凡な、そして奇怪な旋律をもった「ユーモレスク」の一節が、繰かえし、繰かえし反復されていたに違いない……。
       ×
「さあ、安静時間だから横臥場へ行きましょう……いい天気だなア……」
 私はその場のヘンな空気をかえようとして、わざとドンと卓子《テーブル》を叩いて立った。
「そうね――」
 諸口さんも、ハッと眼を上げて腰を浮かせた。
 その時だった。
 ググググッとマダムが咽喉《のど》を鳴らすと、グパッと心臓を吐出すような音をたてて、立ち上りかけた卓子に俯伏《うつぶせ》になった。
「あ」
 と思った瞬間、俯伏になったマダム丘子の口元から透通るような鮮やかな血潮が泡立ちながら流れ出、真白い卓子にみるみる真赤な地図を描いて滲《にじ》み拡がった。
(喀血!)
 三人は、ハッと飛上った。ガタンと物凄い音がして椅子が仰向《あおむけ》にひっくりかえった。
「……看護婦さん……看護婦さん……」
 諸口さんは胸のあたりに顫《ふる》える両手を組合せた儘、蒼白な顔をして呟くように看護婦を呼んでいた。
「マダム、大丈夫、大丈夫」
 青木は急いでテーブル・クロスを引めくると、丘子の胸元に挿《はさ》んだ。
 俯伏になった丘子の背は、劇しく波打って、咽喉にからまった血を吐出す為に、こん限り喘《あえ》いでいた……。
「大丈夫です、落着いて、落着いて――」
 飛んで来た主任看護婦が馴れた手つきで彼女をささえた。
 ……やっと面《おもて》を上げた丘子の眼は、眼全体が瞳であるかのように泪にうるんで大きく見開かれあらぬ部屋の隅を睨んでいたが、やがて私たちに気がついたのであろうか、絶入るような、低い、薄い笑いを見せた。その時、わずかに綻《ほころ》んだ唇の間から真赤な残り血が、すっと赤糸を垂らしたように流れ落ちて、クルッと鋭《とが》った顎の下にかくれた。
 看護婦にうながされて、私たちは匆々《そうそう》とサン・ルームを出て横臥場に行った。
 一足外に出ると、外はクラクラするような明るさで鋭《とが》り切った神経の三人は、思わずよろよろっと立止ってしまった。太陽は腐《す》えた向日葵《ひまわり》のように青くさく脳天から滲透《しみとお》った。
       ×
 崩れるように横臥椅子に寝てしまうと、誰も口をきかなかった。
 目をつぶった儘、しいて気を静めようとしても、異様に昂ぶった神経は、却って泡立つ鮮血とあの気味の悪い“ユーモレスク”が思い出されるのだ、唄うまい、としてもその旋律が脈搏に乗って全身に囁きわたるのであった。
 長いこと転々としてその昂ぶった神経を持てあましながら、ラッセルのように懶《ものう》い※[#「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]《あぶ》の羽音を、目をつぶって聞いている中に、看護婦が廻って来た。
「三時ですわ、お熱は……」
「あ、忘れてた……今はかるよ、マダムどう――」
「はあ……」
 私は体温計を脇の下に挿込みながら、その見習看護婦雪ちゃんの子供子供した顔から、
(マダムは悪いナ……)
 と直感した。
「恰度、お体の悪い時なので、なかなか出血が止まらない、と先生が仰言《おっしゃ》ってました
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