わ……」
「ああそうか、悪い時やったもんだナ」
私もなんだか熱っぽいようだ。
体温計をこわごわ覗いてみると、七度五分。
(いけない……)
私は急に胸苦しさを感じて来た。
「僕も熱が出ちまったよ」
「皆さんですわ、……あんなのご覧になると……諸口さんなんかもうお部屋で真蒼になってお寝《やす》みですわよ」
そういわれてみると、いつの間にか諸口さんも、青木も姿がなかった、私は、
(気のせいだ)
と思いながらも、七度五分、七度五分と二三度呟くと、又ぐったり寝椅子に埋まってしまった。
雪ちゃんは、そっと私の足に毛布をかけて行った。
×
やがて蒼空が茜《あかね》のためになんとなく紫がかって来、水蒸気が仄々《ほのぼの》と裏の森から流れ出て来ると、夕食の鐘が、きょう一日、何事もなかったかのように、私のところにまで響き伝わって来た。
私は少しも空腹を覚えなかったけれど、半ば習慣的に寝椅子から立って、寝癖のついた後頭部《うしろ》を撫ぜながらサン・ルームの食堂に行った。
食堂へ行ってみると、いつもより心もち尖《とが》った顔をした諸口さんがタッタ一人、ぽつんと椅子にかけていた。
私たちは無言であった、さっきここで大喀血をしたマダム丘子の姿を思うと、食慾はさらになかった。
「青木さんは」
雪ちゃんに訊いてみた。
「さあ、さっき横臥場へいらしたきりお見えになりませんけど……」
(青木の奴、飯なんか喰いたくないだろう)
と同時に、
(マダムの部屋に行ってるのかな)
一生懸命額を冷してやったりして看護している彼の姿を想像して「フン」と思った。
私たちがもそもそと味気ない夕食を済ましてしまっても、遂に青木は姿を見せなかった。主のないお膳の吸物からは、もう湯気さえ上らなかった。
「雪ちゃん、青木さん知らない」
主任看護婦が廻って来てそういった。
「いいえ、お部屋じゃなくて」
「お部屋にも、マダムのとこにも、まるで見えなくてよ」
「散歩かしら」
「それにしても、長すぎるわ……」
二人はひそひそと囁きあった。
「青木さんいないんですか」
私も口を挟んだ。
「ええどうなさったんでしょう――困ったわ……」
その時私は、なんともいえぬ不吉な予感を覚えた。
「変だナ……」
「どうしたんでしょう……」
主任看護婦はこの二階のサン・ルームの手摺から乗出すように、暮れかかるサナトリウムの全景を、じーっと見廻した。
諸口さんは目を半分閉じて、番茶を啜っていた。
三、夕暮は罌粟《けし》の匂いがする
私は食事をすますと、その足でマダムを見舞った。マダムは真白いベッドの中に落ち窪んだように寝、蒼白な額にはベットリと寝汗をかいて、荒い息吹《いき》が胸の中で激しい摩擦音をたてていた。
若い看護婦が一人、どうしたらいいだろう、というように、濡れた手拭《てぬぐい》を持った儘、しょんぼりと椅子にかけて、マダムの寝顔を見守っていた。
私はふと落した視線の中にベッドの傍の金盥《かなだらい》を見つけ、そして、それになみなみとたたえられた赤いものを見ると、何んだかとても悪いことをしたような気がして、その儘、あたふたと部屋を出てしまった。
部屋を出ると、入口のところに諸口さんが立っていた。
「どお……」
「……」
私は黙って首を振ると、長い廊下を歩き出した。
(駄目だ……)
口の中で繰返した。
(それにしても青木のやつ、どうしたんだろう……)
通りがけに青木の部屋を覗いてみたが、そこはガランとしていた。
×
部屋へかえると食後の散薬を飲もうと、薬台の抽斗をあけた、その時、中に挟んであったのであろうか、パタンと音がして部厚い白の角封筒が落ちたのに気がついた。
(おや――)
なぜかハッとして拾い上げてみると、表には「河村|杏二《きょうじ》様」とあって裏には「青木雄麗」と書きながしてあった。
思わずドキドキ波打って来る胸をおさえながら封を切った。
読みすすむにつれて、私の手はぶるぶる顫え、額や脇の下には気味の悪い生汗が浮んで来た。
×
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河村杏二様
僕は今、非常に急いでいるのだ、それにもかかわらずナゼこんな手紙をかいたか、それは最後まで読んで戴きたいと思う。
さて、極めて端的にいう、マダム丘子を殺したのは僕だ……不思議な顔をしないでくれたまえ、僕は気が狂ったのではない、いや、狂っているには違いないが、左様、僕はキザな言い方だが「恋と芸術」に狂ったのだ、僕はかつて丘子のような理想の女に逢ったことはない……だが世の中は皮肉だ、やっと廻りあったその僕の理想の女は、すでに大実業家の第二号なのだ、君にこの気持がわかるだろうか、も一つ、これを聞いたら君自身でも、この世の皮肉というものを痛
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