て御覧なさいよ、あの体温表のカーヴとこのメロディと、ぴったり[#「ぴったり」に傍点]合うじゃないの、高低抑揚が、恰度あの波形の体温と吃驚《びっくり》するほど、ピッタリ合うじゃないの……」
「そう……そういえば成るほど……」
「あたし、この唄、唄うと、とても怖いの……だって
[#ここから2字下げ]
密やかに慕寄る 慰めの唄
[#ここで字下げ終わり]
っていうところに来ると、急に調子が上るんですもん……熱でいえば四十度位になるんだわ……恰度あたしその高くなるところに来たような気がするの、きっと今にも熱がぐんぐん上るわ……」
こういってマダム丘子は、いつもの朗らかさに似合わぬ、荒涼とした淋しさを、美しい顔一杯に漾《ただよ》わすのであった。
(なァに、いくらか体の変調のせいだろうさ……)
と思いながらも、私自身、ついその気味の悪い唄を口吟《くちずさ》んでいた。成る程、その楽譜に踊るお玉杓子《たまじゃくし》のカーヴは正弦波《サインカーヴ》となって、体温表《カルテ》のカーヴと甚しい近似形をなしていた。
結核患者《テーベー》の妄想的不安と思いながらも、ハッキリ否定することの出来ぬこの患者独特の潜在恐怖と、極めて尖鋭された神経の痙攣を半ば不安な気持で、じっと見詰めているより仕方がなかった。
この麗魔のように思われていたマダム丘子にも、こんな末梢神経的な、それでいて、居ても立ってもいられない恐怖を持っているのかと思うと、既《か》つて考えても見なかった可憐な女性を、そこに感ずるのであった。
青木も、諸口さんも黙っていた、しかし皆の胸の中には一勢に、あの平凡な、そして奇怪な旋律をもった「ユーモレスク」の一節が、繰かえし、繰かえし反復されていたに違いない……。
×
「さあ、安静時間だから横臥場へ行きましょう……いい天気だなア……」
私はその場のヘンな空気をかえようとして、わざとドンと卓子《テーブル》を叩いて立った。
「そうね――」
諸口さんも、ハッと眼を上げて腰を浮かせた。
その時だった。
ググググッとマダムが咽喉《のど》を鳴らすと、グパッと心臓を吐出すような音をたてて、立ち上りかけた卓子に俯伏《うつぶせ》になった。
「あ」
と思った瞬間、俯伏になったマダム丘子の口元から透通るような鮮やかな血潮が泡立ちながら流れ出、真白い卓子にみるみる真赤な地図を描いて滲《にじ》み拡がった。
(喀血!)
三人は、ハッと飛上った。ガタンと物凄い音がして椅子が仰向《あおむけ》にひっくりかえった。
「……看護婦さん……看護婦さん……」
諸口さんは胸のあたりに顫《ふる》える両手を組合せた儘、蒼白な顔をして呟くように看護婦を呼んでいた。
「マダム、大丈夫、大丈夫」
青木は急いでテーブル・クロスを引めくると、丘子の胸元に挿《はさ》んだ。
俯伏になった丘子の背は、劇しく波打って、咽喉にからまった血を吐出す為に、こん限り喘《あえ》いでいた……。
「大丈夫です、落着いて、落着いて――」
飛んで来た主任看護婦が馴れた手つきで彼女をささえた。
……やっと面《おもて》を上げた丘子の眼は、眼全体が瞳であるかのように泪にうるんで大きく見開かれあらぬ部屋の隅を睨んでいたが、やがて私たちに気がついたのであろうか、絶入るような、低い、薄い笑いを見せた。その時、わずかに綻《ほころ》んだ唇の間から真赤な残り血が、すっと赤糸を垂らしたように流れ落ちて、クルッと鋭《とが》った顎の下にかくれた。
看護婦にうながされて、私たちは匆々《そうそう》とサン・ルームを出て横臥場に行った。
一足外に出ると、外はクラクラするような明るさで鋭《とが》り切った神経の三人は、思わずよろよろっと立止ってしまった。太陽は腐《す》えた向日葵《ひまわり》のように青くさく脳天から滲透《しみとお》った。
×
崩れるように横臥椅子に寝てしまうと、誰も口をきかなかった。
目をつぶった儘、しいて気を静めようとしても、異様に昂ぶった神経は、却って泡立つ鮮血とあの気味の悪い“ユーモレスク”が思い出されるのだ、唄うまい、としてもその旋律が脈搏に乗って全身に囁きわたるのであった。
長いこと転々としてその昂ぶった神経を持てあましながら、ラッセルのように懶《ものう》い※[#「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]《あぶ》の羽音を、目をつぶって聞いている中に、看護婦が廻って来た。
「三時ですわ、お熱は……」
「あ、忘れてた……今はかるよ、マダムどう――」
「はあ……」
私は体温計を脇の下に挿込みながら、その見習看護婦雪ちゃんの子供子供した顔から、
(マダムは悪いナ……)
と直感した。
「恰度、お体の悪い時なので、なかなか出血が止まらない、と先生が仰言《おっしゃ》ってました
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