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うつそ身もさこそ葛葉《くずば》の露ならめ憂き世の中を恨みてぞ散る
わが死なば山になびかん浮雲を行方しられぬ形見とも見よ
千とせをも猶世は足らじ命こそ人笑へにも生きまほしけれ
誰問はんわが後もこそ悲しけれ世にありてさへ疎まれし身を
わが後を思ふ人ありて問はませば苔むす石ぞさびしからまし
老いぬれば世に疎まれつ月の行く山の端にこそ入らまほしけれ
わが憂きに人もはかなく思ふかな物のあはれは老いてこそ知れ
さりとても身をば心のはなれねば猶火はあつし水は冷《つめた》し
路の辺の蓼生《たでふ》に骨はさらすとも思はぬ人のなさけ受けめや
憂きことよ猶身に積れ老いてだにまだ世に飽かぬ心知るべく
老いぬれどはぐくむ人もなかりけり身は草木にもあらじと思ふに
枕守るともし火ならで泣寝《なきね》する老のあはれを見る人もなし
馴れこしは七十路までの月なれば行く路てらせ死出の山辺の
七十路の春こゆるまで生きたれど馴れこし世には猶飽かずけり
あさましくわが身ばかりを歎くかなひと日も人の為《ため》ならずして
明け残る有明の月とわが老は世にあさましきここちこそすれ
独ゐて物を思へば隙間《すきま》洩るこゑなき風も泣くかとぞ思ふ
うとまれて春に知られぬ老が身は花の都のかたはしに置く
わが身世におもかげばかり陽炎《かげろふ》のあるかなきかに消え残りつつ
われながら心の関にとざされて越えやすき世を滞《とどこほ》るかな
世にわびて人かずならぬ老が身は亡き後《あと》さへもあはれとぞ思ふ
物おもふ涙の袖をありあけの月に干せどもかわかざりけり
あはれとは子だにも思へ老い朽ちし親は何をか我とたのまん
享けがたき人に生れていたづらに果てん我身のなげかしきかな
七十路に老いくづをれて妻子にも放たれんとは思ひがけきや
近からばひとり苦む老を見て捨ててはおかじ人ならば子も
国遠く住むとも老がおもかげは子等が夢にも見えけんものを
世にわびて心の細るをりふしは松吹く風も涙さそひぬ
繁糸《しげいと》の苦しきものは世なりけりとあれば斯かりあふさきるさに
刈りし後《のち》穂には出でても実《みの》らねば人の手ふれぬひつぢ穂やわれ
老が身は人わらへなる腰折れの歌よまんより黙《もだ》もあらぬか
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梅花二首。
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内日さす都めぐりの里つづき咲く梅しろき朝ぼらけかな
梅が香をそよ吹き入れて衣架《みそかけ》のころもに香る春の朝風
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明治二十三年の春。
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六十路あまり八とせの春は越えぬれど心老いせぬものにぞありける
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人人と、嵯峨へ花見にまかりて。
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山のかぜ花に吹くなりひと羽《はね》に千里《ちさと》おほはん大鳥《おほとり》もがも
花守もこころ狂ひし人と見ん桜のもとに酔ひて寝たれば
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明治二十五年の秋、周防国徳山なる照幢の許に遊びにまかりける途中。
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周防《すは》の国|玖珂《くが》の鞠生《まりふ》の浦漕げばうらさびしくも秋の浪立つ
周防《すは》の海かぜふきかはりみなの曲《わた》黒雲いでて秋の雨ふる
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そこに冬までありて、京に上らんとする時。
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おもひやれ浪路を帰る老が身のわかれは死出のここちこそすれ
山の庵に誰待つ人はなけれども帰りてとらん新しき年
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その年の暮に。
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つくろはず檐の老木を門松にことなく年の暮るる庵かな
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明治二十六年の元且に。
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立ちかはる年の吉言《よごと》にみ仏の御名《みな》をとなへて祝ふ春かな
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桃花。
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桃の花したてる路を行けばかも垢つく衣《きぬ》も袖にほふらし
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大圓、照幢等の、老が身に事ふることのまめやかなるも嬉しく、はた仏の慈悲、天地のめぐみの深きをも喜びて、折折に詠める。
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家もなく功《いさを》もあらぬ老なれど子持《こも》たるゆゑに危げもなし
老が身を何かは思ひかこたまし子等うちよりて我を養ふ
おもしろや夢と現《うつつ》のなかぞらに又まぼろしのなぐさめも見つ
身に物の無きをわが世と知りしより心も安し事も足らひぬ
尊しなひと日三たびの食物《をしもの》を命のためと誰《た》がめぐむらん
来ん世はあれかりのうき身もたふとしな鳥獣《とりけもの》にも生れざりしは
来ん世をば何か歎かん心よりおくにたのしき道はありけり
斧の柄の朽ちし昔を思ふにも世や長かりし山に住む身は
世をわたるたつきも知らぬ身にしあれど心一つは楽しくぞ思ふ
天地は物こそ言はね四つの時いやつぎつぎに事は足らひぬ
つくづくと思へば安きわが世かな成らぬを捨てて成るに任《まか》せば
世に洩れてすぐすは安し痩畑《やせばた》に人の捨てたる老茄子われ
歎かじな定めなきこそ世の中の変りてめぐる姿なりけれ
身を悔いば限もあらじおむかしく思ひくらせば楽しくありけり
さびしさを心としめし柴の戸を敲くと思へば山の松かぜ
うつらうつら月日ゆくこそ楽しけれ世に滞《とどこほ》る心は無しに
やがて尽きんわが世うれしな父母の跡慕ふべき日も近づきぬ
七十路を四つ越えしこそ嬉しけれ猶生きば生き今死なば死ね
われ老いぬ年は七十ぢ四つ越えぬ今は世になき身ぞと思はん
消えはてて跡なき身こそうれしけれ浮世の夢は涯《はて》し無ければ
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都。
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そなはりし都の人の姿見よところからこそ身はたふとけれ
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耳うとくなりて。
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わが耳のちかからませば世の中の事を聞くにも物思はまし
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梅雨。
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降りつづく皐月の雨の川社《かはやしろ》こころましませ流れもぞする
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近江国に遊びける夏。
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風そよぐ堅田の舟の磯めぐり浪もしづけし夕月もよし
鳰《にほ》の浮く蘆間の水を漕ぎわたり涼しくもあるか真野の釣舟
涼しきは真帆にうけたる比良おろし吹かれてゐざる鳰《にほ》の釣舟
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鷺二首。
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入日さす鳥羽の松原しら雪のふると見るまで鷺の来て寝《ぬ》る
川の洲に鷺のむれ白くゆふだちの濁りにあさる夏の夕暮
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一乗寺の里に住みける夏。
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焼けしうへ一雨《ひとあめ》そそぐゆふだちのしめり涼しく土の香の立つ
ゆふだちに濡れし鴉の羽たたきに桐の花ちる夕あかりかな
枕つく妻屋《つまや》もささで夏の月入るまでを見ん夜の涼しさに
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明治二十六年の夏、子等の集ひきて、祖先を初め、無縁となれる身《み》内《うち》の亡き魂をまつりて供養しけるうれしさに。
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ありし世をしのぶにゆかし亡き人の魂の行方と蓮葉《はちすば》を見て
はらからか親か啼く音の身にしみて袂ぞしめる山ほととぎす
父母のむかししのびて盆《ぼに》すれば袖こそしめれ花を折るにも
親のため盆《ぼに》する宵の松虫はわが待つ魂の声かとぞ聞く
亡きかずにいつか入らんと父母の魂まつるにも我世をぞ思ふ
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夏田家。
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しらしらと咲きめぐりたる夕貌の花の垣内《かきつ》に馬洗ふこゑ
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某の別墅にて。
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まがり木に檐をもたせて造れども夏は涼しき草葺の屋根
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山階宮の御歌会に侍りて、夏海といふことを。
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紀の海や夏の追風《おひて》に由良の埼漕ぎごころよき朝びらきかな
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子規。
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滝なして水沫《みなわ》さかまく宇治川に鮎釣りがてら聞くほととぎす
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明治二十七年七月十二日、人人と一日百首催しけるに、いみじく暑さ日なりければ。
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暑さには己が家すら草まくら旅ごこちして置きどころ無し
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宇治に遊びて。
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菟道川《うぢがは》や蛍を見ると板橋の桁《けた》にもたれて更けぬこの夜は
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蜩四首。
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夏深き鳴滝山のひぐらしは水の音よりすずしかりけり
秋風に肌《はだへ》すずしく午睡《ひるね》して聞きごころよきひぐらしのこゑ
ひぐらしのうつくしよしと鳴くなへに野に来て見れば千草花咲く
かへりこぬあたら月日をいたづらに過すは我と山のひぐらし
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虫三首。
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夕かけて桐の木蔭に虫ぞ啼く落ちし一葉《ひとは》やおどろかしけん
ふぢばかま尾花折りそへ帰る野のうしろに啼ける蟋蟀《こほろぎ》のこゑ
露の野に啼くきりぎりすきりきりと管《くだ》巻くもあり機織るもあり
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森田昌房と、大原に鹿を聞きにまかりて。
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声きけばあはれせまりてさ男鹿は角《つの》あるものと思はれぬかな
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上田重女の身まかりて四十九日の忌に。
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消ゆと見て歎きはせしかしら露の玉は蓮《はちす》に結びかへけん
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明治二十八年十一月二十五日、西賀茂の神光院にまかりける時、路の辺の墓を見て。
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誰か世に生き残るべき墳墓《おくつき》の古きを見れば涙ながるる
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明治二十九年九月二日、妻初枝の身まかりければ。
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おくれじと思ひもあへぬ妻わかれ我を残していづち行きけん
明日しらぬ老が行方を歎くかなあはれ今年は妻なしにして
えにしありておなじ宿守るきりぎりす影だに見えず声も聞えず
今朝《けさ》は家に見えねばさびし子の為にその垂乳根《たらちね》の母の面影《おもかげ》
いささめの雲隠れとは思へども見えねばさびし秋のかりがね
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その喪に籠りけるほど。
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秋の日もうらさび暮し夜《よる》は唯いきつぎ明す身にこそありけれ
臥しかねて秋の夜寒にくるしむは壁なる虫と床《とこ》の上《うへ》のわれ
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その忌の終る日。
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身まかりて四十日《よそか》九日《ここのつか》わが妻の潔斎《いもゐ》もあはれ今日かぎりかな
世にあれば怨言《かごと》も言へど亡き後の妻屋を
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