こそさもあらばあれ墨染の色をうき世の水に洗ふな
世世|経《ふ》とも法に仕へん身にしあれば有漏路《うろぢ》の塵に心染めざれ
譲るべき道は人にと慎みてわれ知り顔にこころ誇るな
時まなくまめに仕へよみ仏に奉りたる身にこそありけれ
身を蔽へあたはるままの衣《ころも》きて我にふさはぬ奢《おごり》このむな
食《くら》ふ間のあぢはひのみか食物《をしもの》は生きなんためか心して食へ
むさぼりはなにより起る大空に心を放ち求めてを見よ
この心この身を生めり世のかぎり我を知れらば何か歎かん
世に安き人を外目《よそめ》に羨むな我をも人のかくこそは見め
世の中に命まかせて天地を家とすむこそ心やすけれ
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維新前後二十とせばかり、御国のために甲斐なき身も聊か報いまつらんと思ひ立ちて、薩藩を初め諸藩の間に立ちまじり、心を砕くこと多かりしかば、家を思ふに暇なくて、わが岡崎の寺は屋根より雨漏り、畳皆がら朽ちはてて、白く黴びたる床板の落ちたる裂目よりは竹萱草などさへ生ひ出てぬ。もとより檀徒といふものふつと無き寺なり。一とせ旅より帰りきて、この荒れたる中に家守る妻子のあはれなりければ詠める。
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直土《ひたつち》に藁《わら》解《と》き敷きて寝《ね》ぬること常と思へば悲しきものを
いとほしき妻と子等とに食はすべき飯《いひ》もなきまで貧しきや何《な》ぞ
春されば花うぐひすと人は言へど心も向かず飯《いひ》に饑うれば
荒寺《あれでら》の柱をつたふ雨の音|板《いた》たたくにも心くだけぬ
男子《をのこ》はも国を歎けど若草の妻の歎くは家のため子の為《ため》
有馬なる出湯《いでゆ》には身もふれなくに朝夕いかに袖のしをるる
世の中のさわぎならねど寝《い》をぞねぬあなかま風の竹に鳴る夜は
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一乗寺の里に住みける夏。
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菜の花の殻《から》うち落し実をとりて赤く野火たく夏の夕ぐれ
あやめ草引く手ににほふ田の溝《みぞ》の小水葱《こなぎ》が花も移し植ゑてん
うたたねに夜は更けぬらし漏る影の簾にうすき夏の夜の月
風吹けばしづくとなりてはらはらと秋告げて散る楢の木の露
かよわくて夏痩したる老が身にてる日を避《よ》けよ夕立の雲
わが庵は竹の林の奥なれば知らでや夏のおとづれもせぬ
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おなじ頃、蓮の咲きければ。
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山寺の杉間すずしくかをるかな花さき出でつやり水の蓮
よそに見て蓮《はちす》の音をちらさめや来ん世にかをるわが魂にせん
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落葉二首。
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桑やなぎ風に黄ばみて散る頃は日影もかなし野辺の夕ぐれ
こもりたる樋守《ひもり》が家の川柳ちればあらはに月のさし入る
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寒月。
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枯れすすき霜にきらめく影更けて荒き裾野に月白く照る
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高野川のほとりに住みける春。
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月よめば春は遠けどあらたまの年立つ日には山の霞める
柳のみ春しりがほに青むかなこぼれし壁をわび人は守《も》る
降るままに柳をつたふ春雨のしづくの珠を蜘蛛《ささがに》の貫《ぬ》く
たらちねの少女子すゑて守るばかりわが守る花を折りゆくや誰
高野川わがむすぶ手もかをるなり花のしづくや水に散るらん
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おなじ頃、或夜門さしたる後、友の来て叩かで帰りぬと聞きて。
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帰りけん霞の閉づる柴の戸はなど叩かぬやうぐひすの友
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物おもふ頃。
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苔の上にひとり咲き散る花なれば惜む人なし見る人もなし
老いぬとて捨てんものかは古川の朽柳にも芽は萌えにけり
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桜四首。
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楯倉や御祖《みおや》の宮の河合に咲きおどろかす一もとの花
靱《ゆき》負ひて太刀を佩きたる物部《もののふ》のよそほひしたる山ざくら花
朝のかぜ吹けば野寺の茅葺《かやぶき》に雪のはだれと散るさくらかな
亡き世にも苔の下《した》にて花を見んさくらばかりに心のこれば
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宇田淵と詩仙堂に遊びて。
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かきこもる木陰かすかにともす火のうつるも涼し山のやり水
山かげの滝の音《と》きよし蜩《ひぐらし》の啼くこゑ聞けば秋ちかづきぬ
蝉の音に夏こそ残れ山窓はにほひすずしき葛《くず》の初花
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播津国住の江の遠里小野にまかりし時。
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露おけば白く涼しな住の江の遠里《とほざと》小野《をの》の草な刈りそね
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妙心寺中の蟠桃院なる稻葉宙方の身まかりけるに。
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六十路《むそぢ》あまり共に浮世を夢と見き君こそ先づは覚めて往にけれ
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山城国愛宕郡高野村の猪口徳右衛門は、若き頃より禅を修しけるが、身まかりければ、手向けつ。
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なきがらを世に打捨てて一つだに物見ぬ本《もと》つ身に帰りけん
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明治二十四年一月九日、西賀茂神光院なる覺樹老比丘の入寂したまへるに。
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かりそめの影なりながら法《のり》の月雲がくれこそ悲しかりけれ
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薩摩国より帰れる時。
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繁糸《しげいと》のいとも苦しや世の中は長しみじかし心みだれて
人わざのしげきを捨てて身を安く世を過《すぐ》さんと求めぬはなし
身のあらんかぎり思はず仮初《かりそめ》の世にいつまでのうかれ心ぞ
たまたまに浮世の夢は見しかども心とむべき里だにもなし
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人に示す。
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何事もみな我からぞいささめに人を悪しとは言ひなくたしそ
人とわれ隔てごころの起る時おのれに告げよ道に惑ふと
天地の人も一つを隔てしてわれはごころに身をぞ過まる
わが物と何を定めん難波潟蘆のひと節《よ》のかりそめの世に
家あれば家をうれたみ田のあれば有るが歎きの種とこそなれ
田も家も無さを悲むうらうへに有れば歎きぬわが妻子《つまこ》まで
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相国寺荻野獨園老師の七十の賀に。
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老の陰《かげ》かくさで照せ法《のり》の月めぐみを有漏《うろ》の露にやどして
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倉田保之の七十の賀に。
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七十路の歳にたわまぬ猛男《たけを》には老の奴《やつこ》も怖ぢおそるらん
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酒。
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須須許理《すすこり》が世に醸《か》みそめしことなぐしほど過《すぐ》さずば事やなからん
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水車。
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ゆくりなくうき世につれてめぐるらん水におさるる井出の小車
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天田鐵眼の髪おろして林丘寺に入りし時。
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入りて見よ心のおくに何かあらん山や山なる水や水なる
水のいろ香もなき雲の身にしむは世に静なる人にこそよれ
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わが尚絅といふ名は、若かりし日に、国学の師八木立禮大人の詩経より撰びて賜ひけるなり。
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つたなさに上《うへ》に襲《おすひ》は掩へども下《した》に錦を著ぬがはづかし
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鳥羽重義の六十の賀に寄松祝といふことを。
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今年よりうき世のがれてしげれ松千とせは己が齢とぞ聞く
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河内国花田の里の愛染院に宿りて。
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立ちのびて照る日ささふる蔭もよしやがて穂に出ん麦の下窓
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大和国八木の里にまかりし時。
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秋涼し天の香山《かぐやま》夜あくれば耳無《みみなし》かけて白き霧立つ
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東山西大谷を過ぎて。
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古塚の苔の上《うへ》しろく露おきて宿るも清し有明の月
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山階宮の御歌会に、虫を。
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荒れはてし壁のくづれの柱根《はしらね》におなじ夜寒《よさむ》のこほろぎの啼く
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秋草三首。
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異草《ことくさ》は枯れゆく秋の初霜に痩せさらぼへる犬蓼の花
咲くままに萎れざりせばなかなかに見あきやせまし朝顔の花
秋風にこころほどけて藤袴ほころびにけり著る人なしに
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秋風三首。
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草の花うつくしよしと啼く蝉の声もまじれる秋の初風
いたづらに過ぎにし世さへしのばれて秋風ふけば心さびしも
荻の葉におとづるるこそさびしけれ風は心の無しと思ふに
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雁四首。
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かりそめの世とや知るらん秋風にかりかりと啼く天つかりがね
有馬山いなの古江に雨すぎて蘆間の月に雁のおちくる
秋かぜは肌《はだへ》に寒し水門田《みなとだ》に雁の来て啼く時ちかづきぬ
淡路の海朝霧ふかし磯崎を漕ぎ廻《た》みくれば雁ぞ鳴くなる
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失題。
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著るきぬの裾も乱れず紐しめて袴の折目《をりめ》世は正しかれ
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家。
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壁草《かべくさ》に藁ぬりこめて竹ばしら茅《かや》の屋根こそ住みよかりけれ
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一乗寺の里に住みける冬。
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板葺はあなかま音におどろきて鳥も立つまで打つ霰かな
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時雨二首。
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晴れぬるか沖に青雲ほの見えてしぐれし風ぞ波に流るる
有馬山さわぐ印南野《いなの》の風《かざ》さきに笹原たたくむら時雨かな
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霜。
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磯かげや朝日も知らずおく霜は汐のさすにぞ敢へず消えゆく
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雪三首。
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見るかぎり八十島《やそしま》しろし薩摩潟沖縄かけてつもるしら雪
吹雪する黒牛潟《くろうしがた》の汐かぜに浪高からし船の寄りくる
葛城や時雨の雲の絶間よりほのかに見ゆる峰のしら雪
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明治二十五年二月五日、ふと老が身のおぼつかなさを思ひつめて痴《し》れがましく打咽び、世をも子等をも恨みなどしつつ、昼つ方より夕までに二百首ばかり詠みける中に。
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