わづら》ふよし聞きて甚《いた》く打歎きしが、十一月二日夜|更《ふけ》て門叩くを誰かと問へば、寛の声なりけり。
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病には命換ふやとかなしみき生き顔を見る老のうれしさ

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除夜に、人の家に宿りて。
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今日年の暮るとも知らで宿るかな檐に来て啼く鳥と我とは

なさけある人のめぐみを命にて家に年せぬあはれ飢人《うゑびと》

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柳。
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時と散るもろさは風の咎《とが》ならでひとり流るる川柳かな

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高野川に近く住みける頃。
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雁来紅《かまつか》の花はまがきに匂ひ出でぬ雁も来啼かん薄霧のうへに

草の庵にしなへうらぶれながむれば涙は秋のものとして散る

わが庵は竹の柱もかぼそきに屋根もたわわに積《つも》るしら雪

行くさ来さ先づ目にかかる冬枯の霜にひと花にほふ撫子

盛りよりあはれは深し咲き残る霜の垣根の菊のひともと

有明の月の叩くと窓見れば冴ゆるあらしに椋の葉の散る

雪ふれり隣の友に物申す酒あたためつわが宿に見よ

老が身も晴れたる朝の野にぞ来《こ》し小松の雪の見まくほしさに

寒き夜はいかにしぬがん老が著る春の衣も綿さはに縫へ

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明治二十五年の春、久しくまからざりし丹後国の与謝に下りて。
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与謝の海かすみ立つ日は浦島の釣のむかしもおもかげに立つ

国見るも限とおもへば与謝の海うらなつかしき天の橋立

見も聞きも涙ぐまれて帰るにも心ぞのこる与謝のふるさと

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物思ふ頃、三月になりても鶯の啼かざりければ。
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鶯も世にものおもふ事やあるあたら初音ぞ啼きおくれつる

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おなじ頃。
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折に遇へば如何なる花か厭はれん時ならぬこそ見劣りはすれ

おもふまま身のならませば花を見る春の心に世は過《すぐ》さまし

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明治二十三年二月、大和国月ヶ瀬の梅見にまかりける路にて。
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伊賀大和ふき来る春の山風に梅が香しみて霞む空かな

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おなじ時、笠置山をよぎりて。
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拝《をろが》めばたふとかりけり笠置山くすしき巌はみな仏《ほとけ》にて

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明治二十六年きさらぎの初、雪ふりける日、人人と修学院村道入精舎に遊びて、百首歌しける折。
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竹の雪たわわに積る葉末より落つるしづくは降るにまされり

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一乗寺の里に住みける頃。
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比叡の山霞のおくに声はあれど花をはなれぬ谷の鶯

萱《かや》むしろ芝生に敷きて花見つつ歌ひたのしむ身こそ安けれ

桜狩り山にうかると見し夢のさむるもおなじ花の木《こ》のもと

おぼろ夜の月には水も霞むらん蛙《かはづ》なくなり前の山の井

わが山の霞のおくに分け入ればあさる雉《きぎす》も山鳥も鳴く

山を近みをりをり雉《きぎす》山鳥の羽音のどけき老が庵かな

菜の花に蝶のむつるる現《うつつ》さへ夢に見らるる老が庵かな

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妻初枝と、吉野、高野などをめぐりて。
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あくがれて花に幾夜の旅寝すと知らで家には我を待つらん

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夕立五首。
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はたた神ゆふだつ沖の汐ざゐに鯨うち上げて荒浪さわぐ

大島や麓ゆふだつにはか雨めぐりの磯は汐の濁れる

荒磯の浪に馴れたる離れ鵜も風ながれするゆふだちの雨

うつくしき砂をたたきて打けぶりむら雨すぐる浜の松原

風早《かぜはや》の浦のゆふだち足早み釣舟さわぐ浪立つらしも

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夏の歌の中に。
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杉むらにかがなく鷲の巣に隣る庵こそ夏は涼しかりけれ

江口《えぐち》びと簗《やな》うちわたせその簗に鮎のかからば膾《なます》つくらな

沢の辺に咲く花がつみかつ散ればやがて咲き次ぐ撫子の花

川岸の根白《ねじろ》高萱《たかがや》かげもよし釣しがてらやここに涼まん

堀江川入江の蓮は五月雨に花もよひして茎《くき》伸ぶる見ゆ

桂川波の上《うへ》わたる夕風にひかり吹かれて飛ぶほたるかな

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文久三年長月二十九日、母の身まかりしに、都にありて臨終にもえ遇はざりけり。
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我よりも母は忘れじ旦暮《あけくれ》に乳《ち》にとりつきしをさな心を

ありし世に法のみちかひ聞きしまま来《きた》れと招く道を行きませ

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失題。
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うつせみの世ははかなしや風すらも西は東風《こち》にぞ吹きかはりぬる

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山階宮の御歌会にまかり侍りて、人、世、心、身、忠、孝、信などいふことを。
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苦むるこころの鬼の奴《やつこ》こそうき身はなれぬ影にしありけれ

心にも素直《すなほ》に身をば守らせて人といふ名を朽《くた》さずもがな

いかばかりあらぬ方《かた》にも迷はまし心まかせの世ならましかば

笛吹くも吹かずも我は獅子舞のあとに付くこそ心やすけれ

夏刈《なつがり》の麻の紵《を》がらの軽き身をわれから重くするや何ゆゑ

見るたびに花をあはれと思ふほど我身も人の思はましかば

わび人は世をひたすらにかこつかな世はまた我をいかに歎《かこ》たん

物おもひも苦みもなく片ゐざり匍ふみどり子の心ともがな

仕へたる君のこころを心にてわが身にあらぬ我身とぞ思ふ

報いずばわが物としもならざらん親のめぐみに成りし身なれば

まことなき心は言《こと》にあらはれぬ命かけても偽《いつはり》はせじ

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西行法師。
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鈴鹿山世をふりすてて妻子《つまこ》にもかへたる道に奥やありけん

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元政上人の遠忌に。
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分け入りし心や常に深草のかすみの谷の花に住むらん

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一乗寺の里に住みける頃、はた、歌の中山に移りて後も、年年に子規の啼くをめでて詠める、くさぐさの歌。
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山にゐて皐月待つ間はほととぎすわが庵にきて羽ならしせよ

ほととぎす初音なくやといたづらに今日も暮しつこの山の辺に

小柴垣いふかひもなき庵ながら山ほととぎす聞くにはよろし

汝が啼かんよすがの雨は竹に降る空頼《そらだの》めすな山ほととぎす

み山辺の老木にもがもほととぎす夏来る毎に宿して聞かな

いかばかりあはれの鳥ぞほととぎす聞く人毎に物思ひする

ほととぎす啼くとも知らで入りし山声ぞ落ちくる厳橿《いづがし》がうへに

ほととぎす初音し聞けば苗代に斎種《ゆだね》まきおろす時ぞ来にける

涙知るあはれの鳥よほととぎす物思ふ夜のあかときに鳴く

ほととぎすわが独|寝《ぬ》る床ちかく宿りては啼け妻と聞くがに

独住むみ山の月にほととぎす啼く夜しもこそさびしかりけれ

ほととぎすほのめく声は夏山の若葉に藤の花かをる頃

五月雨はさびしきものをほととぎす独聞く夜は静ごころなし

惜まれし花にもかへてうれしきは初夏山に啼くほととぎす

つらかりし昔の世さへほととぎす聞く世しもこそ思ひいでぬれ

世の中にをかしきものはほととぎす夢にまぎるるあかつきの声

ひと声になぐさめられてみ山路も越えやすかりき山ほととぎす

ほととぎす来鳴きとよもすわが庵の老木の榎こぬれしみみに

つらしとは待つ夜のかずに思ひ知る恋にも似るか山ほととぎす

啼きさして山子規わがここだしのばく知らにいづち行きけん

ほととぎす汝は前《さき》の世の何なれや幾日《いくか》啼くにもあはれと我が聞く

世に知らぬみ山の月の涼しきに子規さへなぐさめて鳴く

ほととぎすあはれの鳥と言《い》ひつつも啼かねば待たれ啼けば悲しも

ほととぎす待たねど宇多の中山は必ず来啼く雨の夕ぐれ

世を捨てし老が耳にも聞く時は山ほととぎす涙ぐましも

ほととぎす物思ふ夜はわがこころ鳥さへ知るか常ゆけに啼く

ひとりゐて黙《もだ》もあらんと思へどもまた音づるる山ほととぎす

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洛東岡崎の里に住みける頃。
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避けたれど猶世の中か韓碓《からうす》のかせぎけぢかき岡崎の里

山越しの風を時じみわが小田の夕霧ごもりかりがね啼くも

はだれたる雪かとばかり見てぞ行く月の影ちる竹の下路

引板《ひだ》かけて早稲田守るべくなりにけり穂末におもる秋の初風

草の花さきて匂へど蜩《ひぐらし》は来啼けど野辺はさびしくなりぬ

むらがりし霧は谷間にしづまりてほのぼの白む秋の野の庵

秋風の身にしみじみとさびしきは薄霧のぼる雨のゆふぐれ

葛の葉の玉巻く風も見えそめてうら悲しきは初雁のこゑ

わび人の住める野末の霜枯に松の戸ほそく立つ煙かな

小山田の稲城《いなき》はなれぬ稗鳥《ひえどり》を吹きおどろかす引板《ひだ》の夕風

冬枯の檐端あらはにさびしきは瓜生の霜に柳ちる頃

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清閑寺に住める頃、清水坂に、おもてに猿を繋ぎて世のいとなみとする家あり。山の出で入りにそを見るが悲しくて。
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身一つも世はうし苦し手を合す猿を見るにも涙こぼれぬ

餌乞《ゑごひ》して手を合せたる飼猿《かひざる》を我とし見れば身にせまるかな

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馬。
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牧の馬蹴あげ荒るれど益荒男は手綱たぎつつ鞍無しに乗る

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煙。
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立ちのぼる野辺の煙をわがはてと思へば安し心きよけし

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柳二首。
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根は水に洗はれながら加茂川の柳の梢《うれ》はけぶり青めり

うすぐもり風もにほひて霞むかな六田《むつだ》の淀の青柳の原

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春雨。
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花ぐもり降るとも見えぬ春雨に牛の背ぬれぬ門田《かどた》鋤く間に

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落花二首。
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寒けきは心づからかみ吉野の耳賀《みみが》の峰に花の雪降る

春深き清滝川は水よりもあらしにさわぐ花のしら波

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歌の中山に住みける冬。
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うるはしく紅《あか》に白きをうちまぜて残る紅葉に初雪ぞ降る

天霧《あまぎら》ひ時雨の降れば狭丹づらふ紅葉は散りぬ山はさびしも

日ならべて大雪ふれり奥山の松の木末も土につくまで

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膝を枕にわが命終らんと思ひし子の照幢を、明治十九年の春、周防徳山なる徳応寺の養子に遣すとて。
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身の果《はて》はいづくの土と朽ちなんもそなはれる世と思ひ定めよ


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