見れば悲しとぞ思ふ
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またの年の秋も更けて。
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千とせもと契りし人はなくなりて一人も聞くか荻の夕風
なにゆゑに涙のもろき我ならん月見る毎に眸《まみ》のしめれる
山松の梢を月ははなれけりなどか我身の世に曇るらん
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明治三十一年の秋。
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妹にわかれ三とせ著ふるす古ごろも肩のまよひを縫ふ人も無し
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折にふれて。
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人ごとに貴《たか》き卑しき品はあれど命の種《たね》によしあしは無し
さがなくも人は言ふともよしゑやし我は黙《もだ》して事なくぞ経ん
否も諾《う》もわれは辞《いら》へじかにかくに人の心は人に任せめ
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画讃。
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ゑらゑらにうたぐるばかり酔へる人声《こわ》づくりして首のみぞ振る
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山家。
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巌高き山のほそ路つづら折わが松の戸を覓《と》めくるや誰
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歌の中山に移り住みて詠める、くさぐさの歌。
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事しげき憂き世のがれて隠れ栖む巌秀《いはほ》もおなじ天地の中《うち》
事しげき都は常に見わたせどうき世の塵をはらふ山かぜ
わが住める山の峡《かひ》より見わたせば都は雲の下《した》にぞありける
山科《やましな》を越ゆるあらしの音づれにこたへて動く庭の柴垣
隠れ栖む宇多の中山なかなかに身を捨ててこそ世は知られけれ
汲むほどは足らぬ日もなし巌間水《いはまみづ》すみよかりけり歌の中山
住む庵は歌の中山おくまへて入らまほしきは敷島の道
門《かど》に立つ古りし榎に栖む鳥の朝啼く声にわが目さますも
たのまれぬ老が命をおもふにも今年は花の惜まるるかな
柴の戸をおほふ高嶺のしら雲はいつ紫の雲にかはらん
ひとり栖む山を静けみ真木の戸もささで白める月を見るかな
忘るなよ七十路こえて馴れし月かげこそ老が目には疎《うと》けれ
初尾花そよげば老がそら目にもとまりて涼し秋の初風
訪ひきても人は帰れどわび人を思ふまことは月にこそあれ
物おもふ秋の夜頃は草の虫ねに出でてこそ老も泣かまし
守《も》るとては心なやます身を捨てて西へや月に伴はれなん
秋ふけてみ山もさやに小竹《しぬ》の葉のさやぐ霜夜を独ぬるかな
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明治三十年六月十七日、山階宮晃親王殿下の、若宮菊麿王殿下おなじく御息所と共に、わが清閑寺に成らせ給ひ、日もすがら物語らせ給ひける忝さに。
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夏草の露の庵ゆゑみ車を無礼《なめ》くも今日は濡しつるかな
ほととぎす初音にそへて大王《おほぎみ》にたてまつらまし清き山かぜ
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秋野。
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いざ行かん露もつ尾花をみなへし目うつりのよき野辺の秋見に
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武人。
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おほぎみの御楯《みたて》となるを待ち申す命は早くたてまつりつつ
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失題。
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かつは笑みかつは怒りみ世の中は童《わらは》ごとして経るにこそあれ
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相聞十二首。
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夜日《よひ》となく人の見ぬ間の面杖《つらづゑ》は恋に心のかたぶけばつく
しのびこしその愛《かな》しきを外《と》に立てていを寝んものか母は知るとも
韓《から》くにの虎にのるべき益荒夫も肝ぞとらるる恋のやつこに
年を経ておき旧《ふる》したる菅笠の乱れし恋はつかね緒も無し
おもひ寝の夢にのみみて垂乳根の母のゆるさぬ恋をこそ祈れ
命だに死ぬには如かじ顕れば身のいたづらになりもこそすれ
つれなさの人の心に懲りながら思ひやまぬは夕ぐれの空
狭莚《さむしろ》に袖かたしきて吾妹子とながめし月は夢にぞありける
さもこそはとけて逢ふ夜の稀ならめ心をさへに隔てつるかな
結びつぐ人し無からば片糸はいかによるとも甲斐なからまし
物もひに痩せこそまされ憂き人のつらさは我に現れにけり
別れゆく今朝の姿を見ざりせば妹にこころを留めざらまし
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明治三十年の冬、周防国徳山なる照幢の許に遊びにまかりて、そこに年を迎へて。
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ふたもとの年の門松いはへいはへひともとは君ひともとは親
世を知らぬ老が今朝くむ水にすら若してふ名は憎《にく》からぬかな
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おなじ年の春、徳山にありて、金子正煥の六十の賀に。
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人の世の六十路は越えつ身の憂きを遁れて遊べ花鳥のうへに
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おなじ頃。
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山落つる水を田に引き牛入れて都濃《つの》の里びと苗代づくる
のどけしな野寺の鐘の音さへもほのかに霞む花の夕ぐれ
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またおなじ頃、何となく身の終りの思はれければ。
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月花にうかれつくして身の果は露のかをりに骨も清《きよ》けん
何くれと世に言挙《ことあげ》はせしかども物言はぬ身と今ぞなりなん
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この夏、雨の久しく降らねば。
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沖辺より西南風《ひかた》ふくらし南の海日にけに川の水の涸れゆく
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おなじ夏、長くわづらひて徳応寺に打臥すほど。
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暑き日もわが臥す床の涼しきはこの竹蔭《たかかげ》のあればこそあれ
口鬚《くちひげ》も髪もけづらじ天地の世に生みいでし心まかせに
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辞世。
[#ここで字下げ、20字組み終わり]
[#ここから2字下げ]
(寛いふ。父の病おもりぬと聞きて、大圓は京より、寛は東京より下りしに、八月十六日の午後三時頃、父は寛に扶けられて起き直り、大圓、照幢その妻彌壽子などを床の辺に居させて、わが命も今日は限ぞ、もろともに別の歌よまんと言ひて、次の歌どもを口授し給ひ、また子等の詠み出でつる歌をも聞きて打笑まれしが、十七日の午前三時ばかりに、念仏の声かすかになりて安らかに息はて給ひき。)
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なにかわれ言挙《ことあげ》はせん天地の足りそなはれる中《なか》に死ぬとて
鷲の山まよひ出でし折は忘れしか月見てかへる秋は来にけり
花と言へば身の終るまでなぐさみぬ来ん世のかをり俤《おもかげ》にして
生けるほどは花に眠りて過《すぐ》しけり今日さめゆくは夢にかあるらん
[#ここから2字下げ]
(寛いふ。この最期の二首は、父が枕のもとなる大きなる壷に、彌壽子が生けたる萩桔梗などの匂へるを見やりて詠み給ひけるなり。)
[#ここで字下げ終わり]
禮嚴法師歌集 完
[#ここから3字下げ、1行20字組みで]
父君のはかなくなりたまへる前の日、御枕のもとに子等をつどへて、永き別の歌よめとのたまひければ、泣く泣くもきこえまゐらせける。
[#ここで字下げ、20字組み終わり]
[#地から2字上げ]大圓
[#ここから2字下げ]
もろともに仏の道をよろこびて後の世までも親子とや言はん
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]照幢
[#ここから2字下げ]
親といひ子といふも世のかり名にて入我我入のさとり楽しも
[#ここで字下げ終わり]
[#地から5字上げ]寛
[#ここから2字下げ]
親といへばなほ人の世のわかれなりまた遇ひ難き仏とぞ思ふ
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
訂正追加。
一、此集の印刷を終れる後丹後の加悦村に九十六歳になれる老媼某現存し、父の幼時を記憶し居りて、童名は長藏、元服して後の幼名は儀十郎と云ひし由を語れりと、従姉細見千枝より報じ来れり。
一、また、父が若狭国の専能寺に養はれ給ひし頃男響天に先ち一女峰野を挙げられしが、二歳にして夭折せし由、兄響天より報じ来れり。
一、此集の三十二頁なる大圓の清国に赴きけるをしのばれし歌の中に「子のかみをいくさにやりて山里に風の吹く日は物をこそ思へ」と云ふ一首ありしを、印刷の際脱漏せり。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「明治文学全集64 明治歌人集」筑摩書房
1968(昭和43)年9月25日第1刷発行
底本の親本:「禮嚴法師歌集」新詩社
1910(明治43)年8月
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にあらためました。固有名詞も原則として例外とはしませんでしたが、人名のみは底本のままとしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:武田秀男
校正:Juki
2004年6月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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