ならんや。寛はそこに父が人としての閃光を認め、一味の哀みの身にせまるを覚ゆ。父は古事記、万葉集、古今集などの学者なりければ、技巧に於ては古典に累せられたる所すくなからねど、叙情にも叙景にも折にふれたる素直なる感情を主題とするに力められ、とりわき述懐の歌に煩悩起伏の醜き自己をあからさまに披瀝せられたるなど、花鳥風月の旧株を守れる近世の歌人以外に立ちて異色を放つと謂ひつべし。但し一生の作を通じて恬澹なる気味あるは、父が一面の性癖に本づき、且つ幼きより父母の感化を受けて心を内典に傾けられたるにも由るべし。祖父母の二男に生れて鐘愛ことに深く、十三歳の冬早くも産を分たれて新宅の工を終らんとする頃、脱塵の志止みがたく、強ひて父母に乞ひて出家せられしを初とし、後年、王政維新のため、宗門のため、社会公益のために、幾多の辛労を重ねながら、その功はすべて他人に譲られたる謙虚の態度に至るまで、この恬澹なる一面の性癖に由れることならん。
一、父が伝記は寛別に詳しく一冊に編したるものあり。ここにはその概略を言はんとす。父は文政六年九月十三日、丹後国与謝郡加悦村の里正細見氏の二男に生れき。十三歳加悦村浄福寺に養は
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