蓬生
與謝野寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)貢《みつぐ》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|軒《けん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)折々《をり/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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(一)
貢《みつぐ》さんは門徒寺《もんとでら》の四男《よなん》だ。
門徒寺《もんとでら》と云《い》つても檀家《だんか》が一|軒《けん》あるで無《な》い、西本願寺派《にしほんぐわんじは》の別院並《べつゐんなみ》で、京都の岡崎にあるから普通には岡崎御坊で通つて居る。格式は一等本座《いつとうほんざ》と云ふので法類仲間《はふるゐなかま》で幅《はヾ》の利《き》く方だが、交際《つきあひ》や何かに入費《いりめ》の掛る割に寺の収入《しうにふ》と云ふのは錏一文《びたいちもん》無かつた。本堂も庫裡《くり》も何時《いつ》の建築だか、随分古く成つて、長押《なげし》が歪《ゆが》んだり壁が落ちたり為《し》て居る。其れを取囲《とりかこ》んだ一町四方もある広い敷地は、桑畑や大根畑に成つて居て、出入《でいり》の百姓が折々《をり/\》植附《うゑつけ》や草取《くさとり》に来るが、寺《てら》の入口の、昔は大門《だいもん》があつたと云ふ、礎《いしずゑ》の残つて居る辺《あたり》から、真直《まつすぐ》に本堂へ向ふ半町ばかりの路は、草だらけで誰《だれ》も掃除の仕手が無い。
檀家の一軒も無い此寺《このてら》の貧乏は当前《あたりまへ》だ。併し代々《だい/″\》学者で法談《はふだん》の上手《じやうず》な和上《わじやう》が来て住職に成り、年《とし》に何度《なんど》か諸国を巡回して、法談で蓄《た》めた布施《ふせ》を持帰つては、其れで生活《くらし》を立て、御堂《みだう》や庫裡《くり》の普請をも為《す》る。其れから御坊《ごばう》は昔願泉寺と云ふ真言宗《しんごんしう》の御寺《おてら》の廃地であつたのを、此の岡崎は祖師|親鸞上人《しんらんしやうにん》が越後へ流罪《るざい》と定《きま》つた時、少時《しばらく》此地《こヽ》に草庵《さうあん》を構へ、此の岡崎から発足《はつそく》せられた旧蹟だと云ふ縁故《ゆかり》から、西本願寺が買取つて一宇を建立《こんりふ》したのだ。其時|在所《ざいしよ》の者が真言《しんごん》の道場《だうじやう》であつた旧地へ肉食《にくじき》妻帯《さいたい》の門徒坊《もんとぼん》さんを入れるのは面白く無い、御寺の建つ事は結構だが何《ど》うか妻帯を為《な》さらぬ清僧《せいそう》を住持《じうぢ》にして戴《いたゞ》きたいと掛合《かけあ》つた。本願寺も在所の者の望み通《どほり》に承諾した。で代々《だい/″\》清僧《せいそう》が住職に成つて、丁度|禅寺《ぜんでら》か何《なに》かの様《やう》に瀟洒《さつぱり》した大寺《たいじ》で、加之《おまけ》に檀家の無いのが諷経《ふぎん》や葬式の煩《わづら》ひが無くて気|楽《らく》であつた。
所が先住の道珍和上《どうちんわじやう》は能登国《のとのくに》の人とやらで、二十三で住職に成つたが学問よりも法談が太層|巧《うま》く、此の和上《わじやう》の説教の日には聴衆《きヽて》が群集《ぐんじふ》して六条の総会所《そうぐわいしよ》の縁《えん》が落ちるやら怪我人が出来るやら、其れ程に評判であつた。又《また》太層|美僧《びそう》であつた所から、後家や若い娘で迷ひ込んだ者も大分にあつた。在所の年寄仲間は、御坊さんの裏《うら》の竹林《たけばやし》の中《なか》にある沼《ぬま》の主《ぬし》、なんでも昔《むかし》願泉寺の開基が真言の力《ちから》で封《ふう》じて置かれたと云ふ大蛇《だいじや》が祟《たヽ》らねば善いが。あヽ云ふ若い美くしい和上《わじやう》さんの来《こ》られたのは危《あぶな》いもんだ。斯う噂をして居たが、和上に帰依《きえ》して居る信者《しんじや》の中《なか》に、京《きやう》の室町錦小路《むろまちにしきのこうぢ》の老舗《しにせ》の呉服屋夫婦が大《たい》した法義者《はふぎしや》で、十七に成る容色《きりやう》の好い姉娘《あねむすめ》を是非《ぜひ》道珍和上《どうちんわじやう》の奥方《おくがた》に差上《さしあ》げ度《た》いと言出《いひだ》した。物堅《ものがた》い和上も若《わか》いので未《ま》だ法力《はふりき》の薄《うす》かつた故《せゐ》か、入寺《にふじ》の時の覚悟を忘れて其の娘を貰《もら》ふ事に定《き》めた。
其頃|御坊《ごばう》さんの竹薮《たけやぶ》へ筍《たけのこ》を取りに入《はい》つた在所《ざいしよ》の者が白い蛇《くちなは》を見附けた。其処《そこ》へ和上の縁談が伝はつたので年寄《としより》仲間は皆眉を顰《ひそ》めたが、何《ど》う云ふ運命《まはりあはせ》であつたか、愈《いよ/\》呉服屋の娘の輿入《こしいれ》があると云ふ三日前《みつかまへ》、京から呉服屋の出入《でいり》の表具師や畳屋の職人が大勢《おほぜい》来て居る中《なか》で頓死した。
御坊さんは少時《しばらく》無住《むじう》であつたが、翌年《よくとし》の八月道珍|和上《わじやう》の一週忌[#「一週忌」はママ]の法事《はふじ》が呉服屋の施主《せしゆ》で催された後《あと》で新しい住職が出来た。是が貢《みつぐ》さんの父である。此の住持《じうぢ》は丹波の郷士《がうし》で大庄屋《おほじやうや》をつとめた家の二男だが、京に上つて学問が為《し》たい計りに両親《ふたおや》を散々《さん/″\》泣かせた上《うへ》で十三の時に出家《しゆつけ》し、六条の本山《ほんざん》の学林を卒業してから江戸へ出て国書を学び、又諸国の志士に交つて勤王論を鼓吹した。其頃岡崎から程近《ほどちか》い黒谷《くろたに》の寺中《ぢちう》の一室《ひとま》を借りて自炊《じすゐ》し、此処《こヽ》から六条の本山《ほんざん》に通《かよ》つて役僧《やくそう》の首席《しゆせき》を勤めて居たが、亡くなつた道珍和上とも知合《しりあひ》であつたし、然《さ》う云ふ碩学《せきがく》で本山《ほんざん》でも幅《はば》の利《き》いた和上《わじやう》を、岡崎御坊へ招《せう》ずる事が出来たら結構だと云ふので、呉服屋夫婦が熱心に懇望《こんまう》した所から、朗然《らうねん》と云ふ貢《みつぐ》さんの阿父《おとう》さんが、入寺《にふじ》して来る様《やう》に成つた。
其丈《それだけ》なら申分《まうしぶん》は無かつたのだが、呉服屋夫婦は道珍和上に娶《めあ》はせようと為た娘を、今度の朗然和上に差上《さしあ》げて是非《ぜひ》岡崎御坊に住ませたい、最愛の娘を高僧《かうそう》に捧げると云ふ事が、何より如来様の御恩報謝《ごおんはうしや》に成るし、又亡く成つた道珍和上への手向《たむけ》であると信じて居た。娘に此事を語り聞かせた時、娘は、わたしは道珍様が御亡く成りに成つた日から、もう尼《あま》の心に成つて居ますと云つて泣き伏したが、もう朗然和上と夫婦との間に縁談が決《きま》つて居つた後《あと》だから、親の心に従つて終《つひ》に其年の十一月、娘は十五荷の荷《に》で岡崎御坊へ嫁入《よめい》つて来た。娘の齢《とし》は十八、朗然和上は三十四歳、十六も違《ちが》つて居た。
此の婚礼に就いて在所の者が、先住の例《ためし》を引いて不吉《ふきつ》な噂を立てるので、豪気《がうき》な新住《しんじう》は境内《けいだい》の暗い竹籔《たけやぶ》を切払《きりはら》つて桑畑に為《し》て了《しま》つた。
其《そ》れから十年|許《ばか》り経《た》つて、奥方の一枝《かずゑ》さんが三番目の男の児を生んだ。従来《これまで》に無い難産《なんざん》で、産の気《け》が附いてから三日目《みつかめ》の正午《まひる》、陰暦六月の暑い日盛《ひざか》りに甚《ひど》い逆児《さかご》で生れたのが晃《あきら》と云ふ怖《おそろ》しい重瞳《ぢゆうどう》の児であつた。ぎやつ[#「ぎやつ」に傍点]と初声を揚げた時に、玄関《げんくわん》の式台《しきだい》へ戸板に載せて舁《かつ》ぎ込まれたのは、薩州の陣所へ入浸《いりびた》つて半年も帰つて来ぬ朗然和上が、法衣を着た儘三条の大橋《おほはし》で会津方《あひづがた》の浪士に一刀眉間を遣られた負傷《ておひ》の姿であつた。
傷《きず》は薩州|邸《やしき》の口入《くちいれ》で近衛家の御殿医《ごてんゐ》が来て縫《ぬ》つた。在所の者は朗然和上の災難を小気味《こきみ》よい事に言つて、奥方の難産と併せて沼《ぬま》の主《ぬし》や先住やの祟りだと噂した。もともと天下を我家と心得て居《ゐ》る和上《わじやう》は岡崎の土地などを眼中に置いて居ない所から、在所の者に対して横柄《わうへい》な態度《たいど》も有つたに違ひ無い。其上《そのうへ》近年は世の中の物騒《ぶつさう》なのに伴《つ》れて和上の事を色々《いろ/\》に言ふ者がある。最も在所の人の心を寒からしめた馬鹿々しい噂は、和上は勤王々々と云つて諸国の浪士に交際《つきあ》つて居《ゐ》る。今に御寺の本堂を浪士の陣屋に貸して、此の岡崎を徳川と浪士との戦場《いくさば》にする積りだらう、と云ふ事である。で何かに附けて在所の者は和上を憎んだが。檀那寺《だんなでら》の和尚では無いから、岡崎から遂ひ出す訳《わけ》にも行か無かつた。
和上と奥方との仲は婚礼の当時から何《ど》うもしつくり[#「しつくり」に傍点]行つて居無かつた。第一に年齢《とし》の違《ちが》ふ故《せゐ》もあつたが、和上は学者で貧乏を苦にせぬ豪邁《がうまい》な性質《たち》、奥方は町家の秘蔵娘《ひざうむすめ》で暇《ひま》が有つたら三味線を出して快活《はれやか》に大津絵《おほつゑ》でも弾かう、小児《こども》を着飾《きかざ》らせて一人々々《ひとり/\》乳母を附けて芝居を見せようと云ふ豪奢《がうしや》な性質《たち》、和上が何かに附けて奥方の町人|気質《かたぎ》を賎むのを親思《おやおも》ひの奥方は、じつと[#「じつと」に傍点]辛抱して実家《さと》へ帰らうともせず、気作《きさく》な心から軽口《かるくち》などを云つて紛《まぎ》らして居る内に、三人目の男の児を生んだ。
此度《このたび》の難産の後《あと》、奥方は身体《からだ》がげつそり弱《よわ》つて、耳も少し遠く成り、気性までが一変して陰気に成つた。和上の傷《きづ》は二月《ふたつき》で癒えたが、其の傷痕《きづあと》を一目見て鎌首《かまくび》を上げた蛇《へび》の様だと身を慄《ふる》はせたのは、青褪《あをざ》めた顔色《かほいろ》の奥方ばかりでは無かつた。其頃|在所《ざいしよ》の子守唄《こもりうた》に斯う云ふのが流行《はや》つた。
[#ここから2字下げ]
『坊主《ばうず》の額《ひたひ》に蛇《へび》が居《ゐ》る。
蛇《へび》から飛《と》び出《で》た赤児《あかご》の眼《め》。』
[#ここで字下げ終わり]
『赤児《あかご》の眼《め》』は重瞳《ぢゆうどう》の三男を指《さ》したのである。奥方は何と云ふ罪障《つみ》の深い自分だらうと考へ出した。本堂の阿弥陀様|計《ばか》りでは此の不思議な怖《おそ》ろしい宿業《しゆくごふ》が除かれぬやうな気がするので、門徒宗でやかましい雑行雑修《ざふぎやうざつしゆ》の禁制《きんせい》を破つて、暇《ひま》があれば洛中洛外の神社仏寺へ三男を抱《だ》いて参詣した。以前は気質《きしつ》の相違であつたが、今は信仰《しんかう》までが斯う違《ちが》つたので、和上は益々奥方が面白く無い。伏見の戦争が初まる三月《みつき》程前から再び薩州|邸《やしき》に行つた切《き》り明治五年まで足掛《あしかけ》六年の間一度も帰つて来なかつた。伏見戦争の後《あと》で直ぐ、朝命《てうめい》を蒙つて征討将軍の宮《みや》に随従《ずゐしう》し北陸道の鎮撫に出掛けたと云ふ手紙や、一時|還俗《げんぞく》して岩手県の参事《さんじ》を拝命したと云ふ
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