つた後《あと》だから、親の心に従つて終《つひ》に其年の十一月、娘は十五荷の荷《に》で岡崎御坊へ嫁入《よめい》つて来た。娘の齢《とし》は十八、朗然和上は三十四歳、十六も違《ちが》つて居た。
此の婚礼に就いて在所の者が、先住の例《ためし》を引いて不吉《ふきつ》な噂を立てるので、豪気《がうき》な新住《しんじう》は境内《けいだい》の暗い竹籔《たけやぶ》を切払《きりはら》つて桑畑に為《し》て了《しま》つた。
其《そ》れから十年|許《ばか》り経《た》つて、奥方の一枝《かずゑ》さんが三番目の男の児を生んだ。従来《これまで》に無い難産《なんざん》で、産の気《け》が附いてから三日目《みつかめ》の正午《まひる》、陰暦六月の暑い日盛《ひざか》りに甚《ひど》い逆児《さかご》で生れたのが晃《あきら》と云ふ怖《おそろ》しい重瞳《ぢゆうどう》の児であつた。ぎやつ[#「ぎやつ」に傍点]と初声を揚げた時に、玄関《げんくわん》の式台《しきだい》へ戸板に載せて舁《かつ》ぎ込まれたのは、薩州の陣所へ入浸《いりびた》つて半年も帰つて来ぬ朗然和上が、法衣を着た儘三条の大橋《おほはし》で会津方《あひづがた》の浪士に一刀眉間を遣られた負傷《ておひ》の姿であつた。
傷《きず》は薩州|邸《やしき》の口入《くちいれ》で近衛家の御殿医《ごてんゐ》が来て縫《ぬ》つた。在所の者は朗然和上の災難を小気味《こきみ》よい事に言つて、奥方の難産と併せて沼《ぬま》の主《ぬし》や先住やの祟りだと噂した。もともと天下を我家と心得て居《ゐ》る和上《わじやう》は岡崎の土地などを眼中に置いて居ない所から、在所の者に対して横柄《わうへい》な態度《たいど》も有つたに違ひ無い。其上《そのうへ》近年は世の中の物騒《ぶつさう》なのに伴《つ》れて和上の事を色々《いろ/\》に言ふ者がある。最も在所の人の心を寒からしめた馬鹿々しい噂は、和上は勤王々々と云つて諸国の浪士に交際《つきあ》つて居《ゐ》る。今に御寺の本堂を浪士の陣屋に貸して、此の岡崎を徳川と浪士との戦場《いくさば》にする積りだらう、と云ふ事である。で何かに附けて在所の者は和上を憎んだが。檀那寺《だんなでら》の和尚では無いから、岡崎から遂ひ出す訳《わけ》にも行か無かつた。
和上と奥方との仲は婚礼の当時から何《ど》うもしつくり[#「しつくり」に傍点]行つて居無かつた。第一に年齢《とし》の違《ちが》
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