》を取りに入《はい》つた在所《ざいしよ》の者が白い蛇《くちなは》を見附けた。其処《そこ》へ和上の縁談が伝はつたので年寄《としより》仲間は皆眉を顰《ひそ》めたが、何《ど》う云ふ運命《まはりあはせ》であつたか、愈《いよ/\》呉服屋の娘の輿入《こしいれ》があると云ふ三日前《みつかまへ》、京から呉服屋の出入《でいり》の表具師や畳屋の職人が大勢《おほぜい》来て居る中《なか》で頓死した。
御坊さんは少時《しばらく》無住《むじう》であつたが、翌年《よくとし》の八月道珍|和上《わじやう》の一週忌[#「一週忌」はママ]の法事《はふじ》が呉服屋の施主《せしゆ》で催された後《あと》で新しい住職が出来た。是が貢《みつぐ》さんの父である。此の住持《じうぢ》は丹波の郷士《がうし》で大庄屋《おほじやうや》をつとめた家の二男だが、京に上つて学問が為《し》たい計りに両親《ふたおや》を散々《さん/″\》泣かせた上《うへ》で十三の時に出家《しゆつけ》し、六条の本山《ほんざん》の学林を卒業してから江戸へ出て国書を学び、又諸国の志士に交つて勤王論を鼓吹した。其頃岡崎から程近《ほどちか》い黒谷《くろたに》の寺中《ぢちう》の一室《ひとま》を借りて自炊《じすゐ》し、此処《こヽ》から六条の本山《ほんざん》に通《かよ》つて役僧《やくそう》の首席《しゆせき》を勤めて居たが、亡くなつた道珍和上とも知合《しりあひ》であつたし、然《さ》う云ふ碩学《せきがく》で本山《ほんざん》でも幅《はば》の利《き》いた和上《わじやう》を、岡崎御坊へ招《せう》ずる事が出来たら結構だと云ふので、呉服屋夫婦が熱心に懇望《こんまう》した所から、朗然《らうねん》と云ふ貢《みつぐ》さんの阿父《おとう》さんが、入寺《にふじ》して来る様《やう》に成つた。
其丈《それだけ》なら申分《まうしぶん》は無かつたのだが、呉服屋夫婦は道珍和上に娶《めあ》はせようと為た娘を、今度の朗然和上に差上《さしあ》げて是非《ぜひ》岡崎御坊に住ませたい、最愛の娘を高僧《かうそう》に捧げると云ふ事が、何より如来様の御恩報謝《ごおんはうしや》に成るし、又亡く成つた道珍和上への手向《たむけ》であると信じて居た。娘に此事を語り聞かせた時、娘は、わたしは道珍様が御亡く成りに成つた日から、もう尼《あま》の心に成つて居ますと云つて泣き伏したが、もう朗然和上と夫婦との間に縁談が決《きま》つて居
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