に草庵《さうあん》を構へ、此の岡崎から発足《はつそく》せられた旧蹟だと云ふ縁故《ゆかり》から、西本願寺が買取つて一宇を建立《こんりふ》したのだ。其時|在所《ざいしよ》の者が真言《しんごん》の道場《だうじやう》であつた旧地へ肉食《にくじき》妻帯《さいたい》の門徒坊《もんとぼん》さんを入れるのは面白く無い、御寺の建つ事は結構だが何《ど》うか妻帯を為《な》さらぬ清僧《せいそう》を住持《じうぢ》にして戴《いたゞ》きたいと掛合《かけあ》つた。本願寺も在所の者の望み通《どほり》に承諾した。で代々《だい/″\》清僧《せいそう》が住職に成つて、丁度|禅寺《ぜんでら》か何《なに》かの様《やう》に瀟洒《さつぱり》した大寺《たいじ》で、加之《おまけ》に檀家の無いのが諷経《ふぎん》や葬式の煩《わづら》ひが無くて気|楽《らく》であつた。
 所が先住の道珍和上《どうちんわじやう》は能登国《のとのくに》の人とやらで、二十三で住職に成つたが学問よりも法談が太層|巧《うま》く、此の和上《わじやう》の説教の日には聴衆《きヽて》が群集《ぐんじふ》して六条の総会所《そうぐわいしよ》の縁《えん》が落ちるやら怪我人が出来るやら、其れ程に評判であつた。又《また》太層|美僧《びそう》であつた所から、後家や若い娘で迷ひ込んだ者も大分にあつた。在所の年寄仲間は、御坊さんの裏《うら》の竹林《たけばやし》の中《なか》にある沼《ぬま》の主《ぬし》、なんでも昔《むかし》願泉寺の開基が真言の力《ちから》で封《ふう》じて置かれたと云ふ大蛇《だいじや》が祟《たヽ》らねば善いが。あヽ云ふ若い美くしい和上《わじやう》さんの来《こ》られたのは危《あぶな》いもんだ。斯う噂をして居たが、和上に帰依《きえ》して居る信者《しんじや》の中《なか》に、京《きやう》の室町錦小路《むろまちにしきのこうぢ》の老舗《しにせ》の呉服屋夫婦が大《たい》した法義者《はふぎしや》で、十七に成る容色《きりやう》の好い姉娘《あねむすめ》を是非《ぜひ》道珍和上《どうちんわじやう》の奥方《おくがた》に差上《さしあ》げ度《た》いと言出《いひだ》した。物堅《ものがた》い和上も若《わか》いので未《ま》だ法力《はふりき》の薄《うす》かつた故《せゐ》か、入寺《にふじ》の時の覚悟を忘れて其の娘を貰《もら》ふ事に定《き》めた。
 其頃|御坊《ごばう》さんの竹薮《たけやぶ》へ筍《たけのこ
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