て居た。
『貢《みつぐ》、お前、兄《にい》さんの言ふ事を諾《き》いて呉れ無いか。』
『晃《あきら》兄《にい》さん、御飯《ごはん》でせう。御飯《ごはん》なら持つて来《こ》よう。阿母さんが留守だから御菜《おさい》は何も無いことよ。』
『今《いま》握飯《にぎりめし》を食《く》つたばかりだ。御飯《ごはん》ぢや無い。』
『ぢや、お茶。』
『お茶も飲まして貰《もら》つた。』
『衣服《きもの》を持つて来て上《あ》げようか。』
『衣服《きもの》は自分で着《き》るがね。』
『何《なに》なの。晃《あきら》兄《にい》さん。』
『お前《まへ》本当《ほんたう》に諾《き》いて呉れるか。』
兄が此様《このやう》に念《ねん》を押《お》し辞《ことば》を鄭寧にして物《もの》を頼んだ事は無いので、貢さんは気の毒に思つた。
『ふん、何んでも諾《き》きます。』
『難有《ありがた》いな。ではね、包丁《はうちやう》を取つて来てね、此の縄《なは》を切《き》つて御呉《おく》れ。』
『宜《い》いとも。』
元気よく受合つて台所から庖丁を取つて来た。左の手に蝋燭《ろふそく》を持つて兄の背後《うしろ》に廻《まは》つたが、三筋《みすぢ》の麻縄《あさなは》で後手に縛《しば》つて柱《はしら》に括《くヽ》り附けた手首《てくび》は血が滲《にじ》んで居る。と、阿父《おとう》さんが晃兄さんを切諌《せつかん》なさる時の恐《こは》い顔が目に浮《うか》んだので、此の縄を切《き》つては成らぬと気が附いた。
『之《これ》を切《き》つて、僕、阿父《おとう》さんに問はれたら何《なん》と云ふの。』
『お前にも阿母《おつか》さんにも迷惑《めいわく》は掛け無い。わしの友人《ともだち》が来て知らぬ間《ま》に連《つ》れ出したとお言ひ。』
『晃《あきら》兄《にい》さんは又《また》逃《に》げて行く積《つも》りなの。』
『此処はわしの家《うち》ぢや無い、仇《かたき》の家《うち》ぢや。兄さんの家は斯《こ》[#「こ」は底本では「こん」と誤植]んな暗い処ぢや無くて明《あか》るい処に有るんだ。』
『明《あか》るい処つて、何処《どこ》。大坂か、東京。』
『そんな遠方《ゑんぱう》ぢや無い。何《なん》でもいゝ、早く縄を切《き》つて自由に為《し》てお呉れ。痛くて堪《たま》ら無いから。』
阿母さんも居ない留守《るす》に兄を逃《にが》して遣つては、何《ど》んなに阿父さんから叱《し
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