たが、思切《おもひき》つて引くと、荒い音も為《せ》ずにすつ[#「すつ」に傍点]と軽く開《あ》いた。
『あツ。』
 貢さんが覗《のぞ》いたのは薄暗《うすぐら》い陰鬱《いんうつ》な世界で、冷《ひや》りとつめたい手で撫でる様に頬《ほ》に当《あた》る空気が酸《す》えて黴臭《かびくさ》い。一|間程前《けんほどまへ》に竹と萱草《くわんざう》の葉とが疎《まば》らに生《は》えて、其奥《そのおく》は能く見え無かつた。
『何処《どこ》に居るの。晃《あきら》兄《にい》さん。』
『仏《ほとけ》さんの前の蝋燭《ろふそく》に火を点《つ》けてお出で。』
 貢さんは兄の命令通《いひつけどほ》り仏前《ぶつぜん》の蝋燭を取つて、台所へ行つて附木《つけぎ》で火を点《つ》けて来た。
『晃《あきら》兄《にい》さん、中《なか》は汚《きた》なか無くつて。』
『其処の直ぐ下に阿母さんの穿《は》きなさる草履があるだらう。』
 蝋燭をかざして根太板《ねだいた》の落ちた土間《どま》を見下すと、竹の皮の草履が一足《いつそく》あるので、其れを穿《は》いて、竹の葉を避《よ》けて前に進むと、蜘蛛の巣が顔に引掛る。根太《ねだ》も畳《たヽみ》も大方《おほかた》朽《く》ち落ちて、其上《そのうへ》に鼠《ねずみ》の毛を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り散《ちら》した様《やう》な埃《ほこり》と、麹《かうじ》の様な黴《かび》とが積つて居る。落ち残つた根太《ねだ》の横木《よこぎ》を一つ跨《また》いだ時、無気味《ぶきみ》な菌《きのこ》の様《やう》なものを踏んだ。
『此処《こヽ》だよ。』
 中央《ちうあう》の欅《けやき》の柱《はしら》の下から、髪の毛の濃《こ》いゝ、くつきりと色の白い、面長《おもなが》な兄の、大きな瞳《ひとみ》に金《きん》の輪《わ》が二つ入《はい》つた眼が光つた。晃《あきら》兄《にい》さんは裸体《はだか》で縮緬《ちりめん》の腰巻《こしまき》一つの儘|後手《うしろで》に縛《しば》られて坐つて居る。貢さんは一目見て駭《おどろ》いたが、従来《これまで》庭の柿の樹や納屋《なや》の中に兄の縛《しば》られて切諌《せつかん》を受けるのを度々見て居るので、こんな処へ伴《つ》れて入《はい》つて縛つて置いたのは阿父さんの所作《しわざ》だと思つた。阿母《おつか》さんが裸体《はだか》の上から掛けて遣《や》つたらしい赤い毛布はずれ落ち
前へ 次へ
全17ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング