はな》して、箪笥の前で横に成つた。暑い日だ、そよと吹く風も無い。軒に縄を渡して阿母さんが干《ほ》した瓜《うり》の雷干《かみなりぼし》を見て居ると暈眩《めまひ》がする。じつと目を閉ぢようと為たが、目を閉ぢると、此の広い荒れ果てた寺《てら》に唯つた独り自分の居《ゐ》ると云ふ事が、野の中《なか》で捨児《すてご》にでも成つた様に、犇々と身に迫《せま》つて寂《さび》しい。其れを紛《まぎ》らす為《ため》に目を開いて何か唱歌でも歌はうと試みたが、喉《のど》が硬張《こはゞ》つて声が出無かつた。と、突然低い静かな声で、
『貢《みつぐ》、貢。』
『あ、晃《あきら》兄《にい》さん。お帰り。』
 起上《おきあが》つて玄関《げんくわん》の方《はう》へ走《はし》つて出ようとすると、
『此処《こヽ》だよ。貢《みつぐ》。』
『晃《あきら》兄《にい》さん、何処《どこ》なの。』
 貢さんは玄関と中の間の敷居《しきゐ》の上《うへ》に立つて考へた。
『此処《こヽ》だよ。』
 低い静かな声は本堂から聞える。其処《そこ》は雨が甚《ひど》く洩るので、四方の戸を阿父《おとう》さんが釘附《くぎづけ》にして自分の生れ無い前から開けぬ事に成つて居る。御参詣《おまゐり》の人も無い寺なので、内の者は内陣《ないぢん》で本尊様を拝む。本堂の五十畳敷だと云ふ広間《ひろま》は全く不用な塲処だ。内の者は皆此の広間の有る事を忘れて居《ゐ》る。殊に貢さんは生れて一度も覗《のぞ》いて見ないのだから、遠い遠い不思議な世界から声を掛けられた気が為《す》る
『晃《あきら》兄《にい》さん、何《ど》うして其《そ》んな処へ入《はい》つたの。何処から入《はい》るんです。』
 少時《しばらく》返事が無い。
『晃《あきら》兄《にい》さん。』
 と、貢さんは大きな声を為《し》て喚んだ。低い静かな声は、
『内陣へ廻《まは》りな。左から三枚目の戸だ。』
 貢さんは座敷を通《とほ》つて一段高い内陣へどんどんと足音をさせて上《あが》つた。
『左から三枚目。』
 と、又声が為る。昔から釘附《くぎつけ》に為てあると計り思つて居た内陣と本堂との区劃《しきり》の戸を開けると云ふ事は、少《すくな》からず小供の好奇《かうき》の心を躍らせたが、愈々《いよ/\》左から三枚目の戸に手を掛ける瞬間《しゆんかん》、何《なん》だか見無いでも可《い》いものを見る様な気が為て、怖《こは》く成つ
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