、よく阿母さんの言ふ事をお聞き。なんぼ貧乏な生活《くらし》をしても心は正直《しやうぢき》に持つんですよ。』
『はい。』
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『晃《あきら》兄《にい》さんの様に成つては仕様が無いわね、阿母さんの衣服《きもの》や頭《あたま》の物を何遍《なんべん》も持出して売飛ばしては、唯もう立派な身装《みなり》をする。こんな阿父さんも御着に成らん様な衣類《きるゐ》や、靴や時計を買つてさ。学問でもする事か、フルベツキさんに英吉利西の語《ことば》を習つても三月足らずで止《や》めて了《しま》ふし、何かなし若《わか》い娘さん達の中《なか》で野呂々々と遊んで居たい、肩上を取つたばかしの十八の子の所作《しよさ》ぢや無い。祟《たヽ》つてる御方《おかた》があつて為《な》さるのかも知らんけれど、あれでは今に他人様《ひとさま》の物に手を掛けて牢屋《ろうや》へ行く様な、よい親の耻晒《はぢさら》しに成るかも知れん。今度は阿父さんの財嚢《かみいれ》から沢山《たくさん》なお金《かね》、盲唖院の先生方《せんせいがた》の月給に差上げるお銭を持出して二|月《つき》も帰つて来ないんだもの。阿父さんは見附次第《みつけしだい》警察へ出すと被仰るけれど、其れでは明るみの耻に成る。阿母さんは大原《おほはら》の律師様《りつしさま》にお頼みして兄《にい》さん達と同じ様《やう》に何処《どこ》かの御寺《おてら》へ遣つて、頭《あたま》を剃らせて結構な御経《おきやう》を習はせ度いと思ふの。ね、貢さん、阿母さんや此の脊中《せなか》の桃枝《もヽえ》が頼《たよ》りにするのはお前|一人《ひとり》だよ。阿父《おとう》さんはあんな方《かた》だから家《うち》の事なんか構《かま》つて下さら無い。此の下間《しもつま》の家《うち》を興すも潰《つぶ》すもお前の量見|一《ひと》つに在る。其れに阿母さんも此の身体《からだ》の具合では長く生きられ相《さう》にも無いからね、しつかり為て頂戴よ、貢さん。』
[#ここで字下げ終わり]
『はい、解《わか》つて居《ゐ》ます。阿母さん。』
貢さんの頬にははらはら[#「はらはら」に傍点]と熱い涙が流れた。阿母さんは萌黄《もえぎ》の前掛《まへかけ》で涙を拭《ふ》き乍ら庫裡の中へ入《はい》つた。貢さんは何時《いつ》も聞く阿母さんの話だけれど、今日は冷《つめ》たい沼の水の底《そこ》の底で聞かされ
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