、南無阿弥陀仏。』
 本尊の阿弥陀様の御顔《おかほ》は暗くて拝め無い、唯《たヾ》招喚《せうくわん》の形《かたち》を為給《したま》ふ右の御手《おて》のみが金色《こんじき》の薄《うす》い光《ひかり》を示《しめ》し給うて居る。貢さんは内陣を出て四畳半の自分の部屋に入《はい》つた。机の上に昨日《きのふ》持つて帰つた学校の包《つヽみ》が黒い布呂敷の儘で解きもせずに載《の》つて居《ゐ》る。其れを見ると、力石様《りきいしさん》のお濱さん処へ遊びに行く約束だつた事を思出した。
『遅《おそ》く成つた、遅く成つた。行《い》かう。』
 独言《ひとりごと》を言つて吃驚《びつくり》した様に立上ると、書院の方の庭にある柿《かき》の樹で大きな油蝉《あぶらぜみ》が暑苦《あつくる》しく啼き出した。捕《つか》まへてお濱さんへの土産《みやげ》にする気で、縁側《えんがは》づたひに書院へ足音を忍ばせて行つたが、戸袋《とぶくろ》に手を掛けて柿《かき》の樹を見上げた途端《はずみ》に蝉は逃げた。
『阿房蝉《あはうぜみ》。』
 斯う大きな声で云つて振返ると、書院の十畳の方の室《ま》の障子が五寸程|明《あ》いて居《ゐ》る。兄の晃《あきら》の居間だ。其の間《あひだ》から長押《なげし》に掛けた晃の舶来の夏帽が目に附く。覗《のぞ》いて見たが、晃《あきら》兄《にい》さんは居無い。台所の方《はう》へ走《はし》つて来た貢さんは、其処に阿母さんが見えないので、草履を穿《は》いて裏口《うらぐち》から納屋の後《うしろ》へ廻つた。阿母さんは物干竿《ものほしざを》に洗濯物を通して居る。
『阿母さん、晃《あきら》兄《にい》さんが帰つたの。』
 阿母さんは一寸《ちよつと》振返つて貢さんを見たが、黙《だま》つて上を向いて襁褓《おしめ》の濡れたのを伸《のば》して居《ゐ》る。
『晃《あきら》兄《にい》さんの帽が掛かつてましたよ。』
と鄭寧《ていねい》に云つて再び答《こたへ》を促した。阿母さんは未だ黙《だま》つて居《ゐ》る。見ると、晃《あきら》兄《にい》さんの白地《しろぢ》の薩摩|絣《がすり》の単衣《ひとへ》の裾《すそ》を両手で握《つか》んだ儘阿母さんは泣いて居る。貢さんは、阿母さんの機嫌を損じたなと思つたので、徐《そつ》と背《せな》を向けて四五|歩《あし》引返した。
『貢《みつぐ》さん。』と阿母さんの声は湿《うる》んで居る。
『はい。』
『お前はね
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