《す》ませて、三歳《みつヽ》になる娘の子を脊《せな》に負《お》ひ乍ら、広い土間へ盥を入れて洗濯物《せんたくもの》をして居《ゐ》る。
『お早うでも無いぢや無いか。よく寝られて。昨夜《ゆうべ》は。』
『ふん、寝坊をしちやつた。阿父《おとう》さんは。』
『涼しい間《あひだ》にと云つてお出掛《でかけ》に成つたの。』
『阿母さん、昨日《きのふ》校長さんが君ん家《とこ》の阿父《おとう》さんは京の街《まち》で西洋の薬《くすり》や酒を売る店を出すんだつて、本当かて聞きましたよ。本当に其様《そんな》店を出すの。』
『阿父さんの事だから何を為さるか知れ無い。昔《むかし》から二言目《ふたことめ》には人民の為だもの。』
『今日は何処《どこ》へ入らしたの。』
『神戸の夷人《ゐじん》さん処《とこ》。委しい事は阿母さんなんかに被仰《おつしや》らないけれど、日本で初めて博覧会と云ふものを為《な》さるんだつて。』
『ふうん。』
『お前|御飯《ごはん》は何《ど》うする。』
『お昼と一処でいゝ。』
『ぢや然《さ》うお為《し》。其《それ》から阿母さんは今一枚洗つて、今日《けふ》は大原《おほはら》まで兄《にい》さん達の白衣《はくえ》を届けて来るからね、よく留守番を為《し》てお呉れ。御飯《ごはん》には鮭《さけ》が戸棚にあるから火をおこして焼いてお食《た》べ。お土産《みや》には山鼻《やまはな》のお饅《まん》を買つて来ませう。』
『お日様《ひさん》の暮れぬ内《うち》に帰つて頂戴よ。』
貢さんは井戸端へ下りて自分で水を汲んで顔を洗つた。其れから畳《たヽみ》の破れを新聞で張つた、柱《はしら》の歪《ゆが》んだ居間《ゐま》を二つ通《とほ》つて、横手の光琳の梅を書いた古《ふる》ぼけた大きい襖子《ふすま》を開けると十畳敷許の内陣《ないぢん》の、年頃|拭込《ふきこ》んだ板敷《いたじき》が向側の窓の明障子《あかりしやうじ》の光線で水を流した様に光る。幾十年と無く毎朝《まいあさ》焚《た》き籠《こ》めた五|種香《しゆかう》の匂《にほひ》がむつ[#「むつ」に傍点]と顔を撲つ。阿母さんが折々一時間も此処《こヽ》に閉ぢ籠《こも》つて出て来ぬ事がある丈に、家中《うちヾう》で此《この》内陣計りは温《あたヽ》かい様《やう》ななつかしい様な処だ。貢さんは黒塗《くろぬり》の経机の前の円座《ゑんざ》の上に坐つて三度程|額《ぬか》づいた。
『南無、南無
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