報知《しらせ》は、其の時々《とき/″\》に来たが、少《すこ》しの仕送《しおく》りも無いので、奥方は嫁入《よめいり》の時に持つて来た衣服《きもの》や髪飾《かみかざ》りを売食《うりぐひ》して日を送つた。実家《さと》の方は其頃|両親《ふたおや》は亡くなり、番頭を妹に娶《めあ》はせた養子が、浄瑠璃に凝《こ》つた揚句《あげく》店《みせ》を売払つて大坂へ遂転したので、断絶同様《だんぜつどうやう》に成つて居る。在所の者は誰も相手にせぬし、便《たよ》る方《かた》も無いので、少しでも口を減《へ》す為に然《さ》る尼《あま》の勧《すヽ》めに従つて、長男と二男を大原《おほはら》の真言寺《しんごんでら》へ小僧《こぞう》に遣《や》つた。奥方の心では二人の子を持戒堅固《ぢかいけんご》の清僧《せいそう》に仕上げたならば、大昔《おほむかし》の願泉寺時代の祟《たヽ》りが除かれやう、沼《ぬま》の主《ぬし》も鎮《しづ》まるであらうと思つたので、開基《かいき》と同じ宗旨《しうし》の真言寺《しんごんでら》と聞いて、可愛《かあい》い二人の子を犠牲《いけにへ》にする気で泣き乍ら手放《てばな》した。
明治五年の夏、和上は官界を辞してぶらりと帰つて来た。フロツクコオトを着て山高|帽《ぼう》を被《かぶ》つた姿は固陋《ころう》な在所の人を驚かした。再び法衣を着たことは着たが、永《なが》の留守中|荒《あ》れ放題《はうだい》に荒れた我寺《わがてら》の状《さま》は気にも掛けず格別修繕しようともせぬ。毎日洋服を着て書類を入れた風呂敷|包《づつみ》を小脇《こわき》に挾《はさ》んで、洋杖《すてつき》を突《つ》いて、京都府下の富豪や寺院をてくてくと歴訪《れきはう》する。其れは隣村《となりむら》の鹿《しゝ》ケ谷《たに》に盲唖院《まうあゐん》と云ふものを建てる趣意書を配つて応分の寄附金を勧誘《くわんいう》する為《ため》であつた。
其の翌年に貢《みつぐ》さんが生れた。
(二)
今日《けふ》は日曜なので阿母《おつか》さんが貢さんを起《おこ》さずに静《そつ》と寝かして置いた。で、貢さんの目覚《めざ》めたのは朝の九時頃であつた。十歳に成る貢さんは独《ひとり》で衣服《きもの》を着替へて台所へ出て来た。
『阿母《おつか》さんお早う。』
阿母さんはもう[#「もう」に傍点]座敷の拭掃除《ふきそうぢ》も台所の整理事《しまひごと》も済
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