素描
與謝野寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)灰色化《グリゼエイエ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)色|布《トワル》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)けば/\しい
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)相《アスペ》をした 〔RE'VRIER〕 種の
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−

 おれは朝から寝巻の KIMONO のまヽで絵具いぢりを続けて居た。午飯も外へ食ひに出ないでホテルの料理を部屋へ運ばせて済ませた。まづい物を描いて EXTATIQUE な気分になれるおれの愚鈍さと子供らしさとを自分ながら可笑しく思はないで居られないが、またこの子供らしさが久しく沈んで灰色化《グリゼエイエ》して居るおれの LA VIE の上に近づいた一陽来復の兆《シイニユ》のやうにも思はれる。実際、一ヶ月前に妻を先きに日本へ帰らせて以来のおれは毎日のやうにまづい絵を描いて居る。勿論おれの描く物が絵になつて居やうとは全く思はない。おれは小娘がリボンや小切れを嬉しがるやうに、※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルミヨン、コバルト、オランジユ、とり/″\に美くしい色|布《トワル》の上へ点描《ポワンテイレエ》するのが理由もなく嬉しいのだ。
 ――それにあの女が大分この EXTASE を助けて居る。
 おれは描き上げた甜瓜《メロン》と林檎を実物と見比べながら斯う思つて微笑みたい気分になつた。メロンは一昨日描いたのよりも円味が出て居る。林檎は可なり実物に近い色になつた。
 静まり返つて居た梯子段《エスカリエ》の沈黙を破つて、洞の底からでも昇るやうな気はひで階また階をつたつて来た靴音が突然おれの部屋の前で止まつた。おれは誰れか同国人が訪ねて来たんだと思つて、絵を画架のまヽ裏向けて隠すやうにして壁の方へ寄せた。
 ――どなた。
 ――わたしよ、ARMANDE《アルマンド》。
 おれは女がいつも牽いて来る毛の白い、脚の長い、狼のやうな相《アスペ》をした 〔RE'VRIER〕 種の猟犬の気はひがしなかつたのでアルアンド[#「アルアンド」はママ]だとは気づかなかつたのだ。それに次の RENDEZ−VOUS は明日の火曜日の晩に別々にポルト・サン・マルタン座を観たあとで芝居の近所の珈琲店《キヤツフエ》で待ち合せる約束であつた。おれは戸を開けた。おれの左の手にはまだ画板《パレツト》と刷毛《パンソウ》とを持つて居た。
 ――今日は。
 ――今日は。
 女は紫の光沢のある黒い毛皮の外套に、同じやうな色の大黒帽《トツク》を被り犬の綱を執る代りに大きな紙包みの荷物《パケツ》を提げて居る。手袋の上から手を握らせながら、おれの頬に唇を触れたあとで、
 ――タケノウチさん、あなたの仕事のお邪魔になりはしないこと。
 と云つた。おれは女の見慣れないけば/\しい新粧と、三十歳ぢかい女の豊満な肉の匂ひと、香水のかをりとに一種の快い圧迫を感じた。
[#ここから1字下げ]
――そんなことはない。これは仕事ぢやなくて遊戯だもの。
[#ここで字下げ終わり]
 おれは部屋の隅で徐かに手を洗つた。女は外套を寝台の上へ脱いだ。下には萌葱と淡紅色とを取り合せた繻子の ROBE《ロオブ》 を着て居る。それも新しく仕立てた物らしい。
 ――あなたのお部屋は段々と高くなるのね。
 二週間に二階から三階へ四階へと………
 女は窓に寄つて外を眺めながら斯う云つた。女の右の手に日光があたつて指環に嵌めた玉が火の雫のやうに光つて居る。指も赤く透きとほつて紅玉質になつて居る。
[#ここから1字下げ]
――さうだ、僕は次第に天へ近づいて行くんだ。そして天へ近づいて行くほど巴里がよく見えるから結構だ。
[#ここで字下げ終わり]
 ――天へ。
 と女は云つて、
[#ここから1字下げ、折り返して3字下げ]
――「われは今天を棄てて下《お》りゆく、
太陽よ、星よ、風よ、雨よ、
いざさらば。天の物は彼女《かのをんな》に如かざれば。」
[#ここで字下げ終わり]
 と目立たぬ姿勢《ゼスト》と軽い足踏みとで歌つた。おれは固有名詞が解つた丈で、歌として引き延ばされた語が皆は解らなかつたから、
 ――も一度。
 と促した。女は再び歌ひ直して、
 ――解つたでせう。これはわたしの知つて居る若い詩人のパウルが大学を卒業して阿弗利加に居る父親の処へ行く時、七年の間の屋根裏《マンサルド》の生活を止めたので作つた詩ですわ。
[#ここから1字下げ]
――その男は「地へ」だ、僕は「天へ」だ。しかし僕も屋根裏《マンサルド》まで昇れば引返すかも知れない。
――菊《クリザンテエム》の国へ引返すんでせう。
――まだ其処までは考へられない。
――あなた御存じ。
――なにを。
――マダム・タケノウチの写真がオペラの前の店に並んで居るのを。
[#ここで字下げ終わり]
 タケノウチを女は露西亜人の名のやうにタケノウイツチと発音するのが習慣になつて居る。おれは LES ANNALES 誌の主筆のブリツソン君が撮つて雑誌に載せた妻とおれとのまづい面《つら》の写真が複製されてグラン・ブルヴアルで売られて居ることを知つて居た。おれは南洋の土人夫婦と云つた風に撮られたあの獰猛な相の写真が妻の目に触れずに済んだことを喜んだのであつた。雑誌が公にされた時、妻はもうスエズを東へ越えて居た。
 ――僕も知つて居る。
 と云つたが、おれは此女と妻のことに就て語りたくなかつたので、
 ――何かもつと面白い新消息《エコオ・ヌウボウ》があるでせう。
 と話題を転じてしまつた。おれと此女との間に用ひる新消息《エコオ・ヌウボウ》と云ふ語《ことば》は芸術と芸術家に関する新しい珍聞を意味して居るのである。おれは手を洗つて、もう服を着かへてしまつて居た。女は何か思ひ出したらしく莞爾《につこり》しながら、おれと並んで長椅子へ腰を掛けて、
[#ここから1字下げ]
――ダンヌンチヨが先《さき》の週に或|珈琲店《キヤツフエ》で或女優に言つた話があるの。女優は若い女で小説家に惚れて居るんです。夜食《スウペ》の卓に胡桃が出ると、伊太利の大小説家は女に向いて云ひました、「恋は胡桃だよ、壊さなくちや味が解らない、さうでせう」つて。
――ダンヌンチヨはこれまで沢山の胡桃を壊《こは》したんだらう。
――えヽ、えヽ、巴里でも沢山。………わたしはあの人の飼つて居る廿七匹の猟犬が競売に出たら、その中の一匹それはそれは買ひたくてならない 〔LE'VRIER〕 がありますの。
――大小説家が競売をするかしら。
――仏蘭西の今の文学者にダンヌンチヨのやうな奢侈家は居ません。ダンヌンチヨは作物と奢侈と借金とで名高くなつた文学者ですわ。借金で伊太利に居られなくなつた人は巴里にも居られなくなる時が来ます、屹度。
――あなた、今日は何処へ行つた帰りだね。
――帰りではなくて行く途中よ。………あなたは美くしく着飾つた女と旅をなさることはお嫌ひ。
――それは悪《わる》くない。
――ではあなた、わたしと一所に今夜行つて頂戴な、ランスまで。いいでせう、ランスには巴里やアミアンのノオトル・ダムと同じ古さのカテドラルがありますわ、それから三鞭酒《シヤンパアニユ》の名高い産地ですわ。王政時代の古いホテルで一晩泊つて明日の夕方芝居の時間までに帰つて来ませう。
[#ここで字下げ終わり]
 女の言葉には拒むことの出来ない力があつた。おれは躊躇せずにこの突発の勧誘に応じてしまつた。
[#ここから1字下げ]
――行かう、それは面白からう……… 汽車は何時に出るの。
――午後四時。
[#ここで字下げ終わり]
 時計を見ると四十分の猶予しかなかつた。おれは急いで顔を剃つた。女も手提の金色《きんいろ》の嚢《サツク》から白粉入を出しておれの使つて居る掛鏡《かけかがみ》を覗き込みながら化粧をしなほした。おれはトランクの底から百フランの紙幣を三枚抜き出してそつと洋袴《パンタロン》の隠しへ捻ぢ込んだ。
 発車前十分におれ達の自動車は北の停車場へ着いた。女は荷物《パツケ》をおれに持たせて置いて二人の二等の往復切符を買つた。荷物《パツケ》は量《かさ》の割に軽いものである。おれは女がなぜこんな荷物《パツケ》を持つて出掛けるのか解らなかつた。おれは停車場の中の本屋でランスの智識を得るためにベデカアの北部仏蘭西の部を買ひ求めた。
 汽車の中の廊を通る時、婦人専用室の中に腰を掛けた品のいい一人の老婦人の目と女の目とが合つた。二人は挨拶した。そして女が後ろを一寸振り向いて閃かした 〔UN COUP D'OE&IL〕[#「〔UN COUP D'OE&IL〕」は底本では「〔UN COUP D,OE&IL〕」] の信号がおれを一人で澄したままさつさと他の男女雑居の二等室へ入らせた。女はおれにつづいて来なかつた、そのまま老婦人の室へ席を取つてしまはねばならなかつたのであらう。おれは十五六年前にも或女を伴れた旅行でこんな経験をしたことを朧気に思ひ出したが、それが日本の何処の鉄道線であつたかが思ひ出せなかつた。おれは併し隣の空《あ》いた席へ荷物《パツケ》を置いて後《あと》から入つて来る乗客に「これは僕の友達の席です」と云つて拒んだ。
 黄昏の燈火に満ちた巴里の街を離れてから、次第におれの心は淋しくなつて来た。妻をマルセエユまで送つて行つた帰りにリヨンから巴里へ乗つた夜汽車の淋しかつたことなどが思ひ出された。今日あたり妻が神戸へ着く頃だと思つては疲労した妻の青ざめた顔や母を迎へて喜ぶ児供等の顔が目に浮んだりもした。
[#ここから1字下げ]
――この女との関係がいつか在留して居る同国人の耳に入つて、あの連中の口から妻の耳に入る日が来るだらう。妻が 〔HYSTE'RIQUE〕[#「〔HYSTE'RIQUE〕」は底本では「〔HYSTRE'IQUE〕」] な気分から先に日本へ帰ると云ひ出した時、おれが容易《たやす》く其れを賛成して帰してしまつたことを、妻はその時既にこの女との関係がおれにあつたからだと思ふかも知れない。この女と初めて知つたのはまだ半月以前のことだ。仏蘭西座の看棚《ロオジユ》で偶然新作の BAGATELLE を一所に観て言葉を掛け合つて以来のことだ。そんなことを云つたつて何にもならない、之は動機の問題ぢやなくて結果の問題だ、妻に対して抗弁しようと考へたりするのが抑も愚だ。その時が来たら何もかも一切ぶちまけてしまふことだ。
[#ここで字下げ終わり]
 おれはこんなことを思つたが、また
[#ここから1字下げ]
――体この女は何んだ。PASSY に住んで居ると云ふだけで、くはしいことは自分から話すまで問はないで居て下さいと云つた。もう巴里に一年近く居るおれは大抵人間の階級の見当が附き相だ。けれどこの女の身の上は解りかねる。若しやと想ふこともあるが、それでは事実が余りに ROMANESQUE だ。おれと仏蘭西の NOBLESSE、そんな夢幻劇が型のやうに仕組まれやうとは考へられない。まあ暫く夢遊病者《ノクタンビユウル》になつて夢に引きずられて居やう。そのうちに女の正体が解つて来るだらう。けれど矢張気に掛けずには居られない。女はおれを何と想つてるのかしら。女はダンヌンチヨが黒奴や其他の野蛮人を下部《ギヤルソン》に使つて得意になつて居ると云ふことを話した。女はおれを黒奴の下部《ギヤルソン》あつかひにして居るのかも知れない。おれがあの女の後ろからこの荷物《パツケ》を持つて供して居るのは黒奴でなくて何んだ。
おれはこんなことを考へて気を引き立てたり滅入らせたりして居た。それから
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