塔h》。
おれは女がいつも牽いて来る毛の白い、脚の長い、狼のやうな相《アスペ》をした 〔RE'VRIER〕 種の猟犬の気はひがしなかつたのでアルアンド[#「アルアンド」はママ]だとは気づかなかつたのだ。それに次の RENDEZ−VOUS は明日の火曜日の晩に別々にポルト・サン・マルタン座を観たあとで芝居の近所の珈琲店《キヤツフエ》で待ち合せる約束であつた。おれは戸を開けた。おれの左の手にはまだ画板《パレツト》と刷毛《パンソウ》とを持つて居た。
――今日は。
――今日は。
女は紫の光沢のある黒い毛皮の外套に、同じやうな色の大黒帽《トツク》を被り犬の綱を執る代りに大きな紙包みの荷物《パケツ》を提げて居る。手袋の上から手を握らせながら、おれの頬に唇を触れたあとで、
――タケノウチさん、あなたの仕事のお邪魔になりはしないこと。
と云つた。おれは女の見慣れないけば/\しい新粧と、三十歳ぢかい女の豊満な肉の匂ひと、香水のかをりとに一種の快い圧迫を感じた。
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――そんなことはない。これは仕事ぢやなくて遊戯だもの。
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おれは部屋の隅で徐かに手を洗つた。女は外套を寝台の上へ脱いだ。下には萌葱と淡紅色とを取り合せた繻子の ROBE《ロオブ》 を着て居る。それも新しく仕立てた物らしい。
――あなたのお部屋は段々と高くなるのね。
二週間に二階から三階へ四階へと………
女は窓に寄つて外を眺めながら斯う云つた。女の右の手に日光があたつて指環に嵌めた玉が火の雫のやうに光つて居る。指も赤く透きとほつて紅玉質になつて居る。
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――さうだ、僕は次第に天へ近づいて行くんだ。そして天へ近づいて行くほど巴里がよく見えるから結構だ。
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――天へ。
と女は云つて、
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――「われは今天を棄てて下《お》りゆく、
太陽よ、星よ、風よ、雨よ、
いざさらば。天の物は彼女《かのをんな》に如かざれば。」
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と目立たぬ姿勢《ゼスト》と軽い足踏みとで歌つた。おれは固有名詞が解つた丈で、歌として引き延ばされた語が皆は解らなかつたから、
――も一度。
と促した。女は再び歌ひ直して、
――解つたでせう。これはわたしの知つて居る若い詩人のパウルが大学を
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