ベデカアを取り出して読んでランス市を仏蘭西の奈良だと思つた。
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ランスへ着いたのは九時であつた。女は保護するやうにして老婦人の後について改札口を出た。切符《ビレ》を女が持つて居るので、おれは改札口の処で待ち合せて素早く女の手から受取つた。かう云ふ軽捷な愛に件ふ機才がまたおれに必要になつて来たのが不思議だ。おれは二十歳前後のおれと四十面下げたおれとの二重人格を備へて居ることに自分ながら驚かざるを得なかつた。女は馬車を呼んで老婦人を乗らせて見送つたあとで、また一台の馬車を呼んでおれと一所に乗つた。
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――あのお婆さんは親戚《みうち》の公爵夫人《コンテツス》[#ルビの「コンテツス」は底本では「コンツテス」]。今日ここの市長の嫁になつて居る娘を訪ねに来たのです。今日の汽車は間が悪くつてお気の毒でしたわね。
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女は馬車の上で斯う云つて戦《わなな》くやうに身をすり寄せた。北部仏蘭西の街の十月の夜の辻風は可なりに寒い。二人の気息が白くまじり合つた。
ロオヤル・ホテルの夜食には名物の蝸牛《エスカルゴオ》が出た。[#「出た。」は底本では「出た」]葡萄酒のうまいことは云ふまでもない。おれは寝る前に湯に入《はい》つた。日本の旅の習慣を話して女にも湯に入らせた。
――あなた、わたしがランスへ来た用向を話しませうか。
女は部屋へ帰つて壁の暖炉の真赤に燃える前でブロンドの髪を解きながら斯う云つた。
――気まぐれに散歩に来たのぢやないの。
――それはあなたとわたしとの用向ですわ。別にわたしだけの用向があるのよ。
――解らないね、云つて御覧。
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――わたし子供に逢ひに来ましたの。男の子。去年の四月に生んだのですよ。里親《ヌウリツス》は此街に住んで居ます。この荷物《パツケ》を解《ほど》きませう、みんな坊《モン・プツテイ》に持つて来たんですよ。十七ヶ月も見ないんですもの、どんなに可愛くなつて居ますでせう。物もよく云ふでせうねえ。
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女はこれまで素振にも見せなかつた物やさしい母親|気質《かたぎ》の情緒《サンテイマン》で話しながら荷物の緒を解いた。ボン・マルセの店の商標の附いた幾つかの紙函から取り出して卓の上や寝台の上へ並べたのは、陶製の喇叭《アンブシユウル》、太鼓、白い北
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