子が良人《をつと》の広い机の端に、妊婦の常《つね》として二階の上下《あがりおり》に目暈《めまひ》がする其《その》額を俯伏《うつぶ》して言つた。
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『然《さ》うだらう、家賃ばかりでも従来《これまで》の四倍から費《かゝ》るのだからな。』
『もう、お小遣も無く成つたので御座います。』
『愈々《いよ/\》初めの決心通り背水の陣だね。』
『従来《これまで》も片時呑気な間《ま》も無かつたのですけれど、まだ大崎でなら永い間土地の人に馴染《なじみ》が有りましたから大抵の買物は借りて置けましたが此処《こゝ》は何から何迄現金ですもの。』
『心配しなさんな。明日《あした》から己《おれ》が書き出す。此処《こゝ》へ来てから大分に気分も佳《い》いのだから。月末《げつまつ》には何《ど》うにか成るさ。』
『貴方《あなた》に然《さ》う苦労をおさせ申し度く無い。[#「。」は底本では脱落]私がもつと働けるなら働きたいのですけれど、何分此の身体《からだ》ですもの、来月産を済《すま》して仕舞《しま》はねば本屋廻りも出来ませんし、其《それ》に目暈《めまひ》がね、筆を持つと大変にしますの。』
『お前に此上《このうへ》心配や労働をさせて成るものか、其れは己《おれ》から云ふ事だ。己《おれ》は此の八九年間雑誌の為にすつかり囚《とら》へられて居たが、雑誌が無く成つて見りや暇が出来たのだから、是《これ》からは来客を断つても書く積《つもり》だ。此処《こゝ》へ来てからの生活向《くらしむき》は己《おれ》の責任にして置いて呉れ。』
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良人《をつと》は斯う確乎《きつぱり》と云ふけれど、世間の人々は良人《をつと》を誤解して何の縁故も無い人迄が毛嫌ひして居る。良人《をつと》の書くと云ふ小説の原稿を何処《どこ》の雑誌社で買つて呉れると云ふ当《あて》は全く無い。其れを知らぬ程の良人《をつと》では無いが、持前《もちまへ》の負嫌《まけぎら》ひな気象と妻を労《いたは》る心とから斯う確乎《きつぱり》した事を云ふのであると美奈子は思つて居る。
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『貴方《あなた》は未《ま》だ雑誌の方の払ひも残つてますから、あの方の御《ご》心配もお有り成さるのね。』
『うむ、急に遣らなくても可《い》いさ。月賦にでもすれば。』
『会員の方が会費を寄越《よこ》し
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