下げ]
『兄《にい》さん、今度は僕と兄《にい》さんの抽出《ひきだし》ですよ。』
[#ここで字下げ終わり]
『新聞社から差押に来たんだ。』
兄の勇雄《いさを》は父と母の話を聞き噛《かぢ》つて此んな事を言つて居る。悪い所をば小供等に見せる事だと両親《ふたおや》は心の内で思つたが、差押に慣れた幼い二人は存外平気である。[#「。」は底本では脱落]
『兄《にい》さん、まだ箪笥へ紙を張らないのね。』
『あとで張るんだらう。』
『二人とも門口《かどぐち》で遊べ。』
と保雄は怒鳴《どな》つた。二番目の抽出《ひきだし》からは二人の男の子の着類《きるゐ》が出て来た。皆洗ひ晒しの木綿物の単衣《ひとへ》計《ばか》りであつた。三番目の抽出《ひきだし》から出たのは二人の女《をなご》の子の物|計《ばか》りで、色の褪《さ》めたメリンスの単衣《ひとへ》が五六枚、外へ此《こゝ》の双生児《ふたご》の娘が生れた時、美奈子が某《なにがし》書店に頼んでお伽噺を書かせて貰つて其の稿料で拵《こしら》へた、緋の羽二重に花菱の定紋《ぢやうもん》を抜いた一対の産衣《うぶぎ》が萎《な》へばんでは居《を》るが目立つて艶《なまめ》かしい。最後の抽出《ひきだし》には来月生れると云ふ小児《こども》の紅木綿の着物や襁褓《むつき》が幾枚か出て来た。次の間から眺めて居た美奈子は堪《こら》へ兼ねてわつ[#「わつ」に傍点]と泣き伏した。何も知らぬ腹の中の児《こ》迄が世に出ぬ先から既に着るべき物を剥《は》がれて行《ゆ》くのが母親の心に何《ど》れ丈悲しい事であらう。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『おい、然《そ》う感動するな。平気で居《を》れ。身体《からだ》に障《さは》るから。』
[#ここで字下げ終わり]
執達吏は其の産衣《うぶぎ》をも襁褓《むつき》をも目録に記入した。何物をも見|逃《のが》さじとする債権者の山田は押入《おしいれ》の襖子《からかみ》を開けたが、其処《そこ》からは夜具《やぐ》の外に大きな手文庫が一つ出て来た。文庫の中には保雄と美奈子の十年前の恋の手紙が充満《いつぱい》収めてある。保雄は焚《や》いて仕舞はうと言つた事もあつたが、美奈子は良人《をつと》と自分との若い血汐も魂《たましひ》も元気も皆|之《これ》に籠《こも》つてあると思つて、如何に二人が貧苦に痩せ衰へても、又如何に二人が襤褸《ぼろ》を下《さ》げて生活《くら
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