反逆
矢田津世子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)崇《あが》められん

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只|呆然《ぼうぜん》と

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(例)[#「 小野牧師は」は底本では「「 小野牧師は」]
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       1

「天にまします我らの父よ。願わくば御名の崇《あが》められんことを。御国の来らんことを。御意《みこころ》の天のごとく地にも行われんことを。我らの日用の糧を今日もあたえ給え、我らに負債《おいめ》あるものを我らの免《ゆる》したるごとく、我らの負債をも免し給え。我らを嘗試《こころみ》に遇せず、悪より救い出し給え……アーメン」
 朝の祈りが、厳かに厳かに会堂を流れた。
 罪に喘ぐ小羊達は、跪《ひざまず》き、うなだれた頭を指で支えて、聖なる聖なる父の御名を疲労《くたび》れる迄くり返した。
「聖歌 二十四番!」
 会師が厳然と命令した。
 信者達は慌てて頁をくり始めた。太い、細い声が、てんでんばらばらに弾けた。調子の外れた胴間声が、きわ立ってみんなに後れて焦《あせ》った。跛《びっこ》なコーラスの終った後で、信者の中から几帖面な顔付きの男が立ち上って祭壇に近づき、会師の傍にある大型の聖典を開いて早口に創世紀の或る一箇所を読んだ。
「……宣《のたま》えり……宣えり……」
 男は吃《ども》って、「宣えり」を何遍もくり返じ、赤面してますます慌てて吃った。
 再びコーラスが始って、終ると、前から性急に咳払いをして喉を慣らしていた牧師がおもむろに腰を上げて祭壇に登った。彼の纏っている白い僧衣は、背景の黒い幕と崇高な対照をして、顎迄ある高いカラーや古風な爪先きだけを包む靴と共に、一層彼を威厳づけ、神に近いものにしていた。
「新約聖書、ヨハネ第一の書の第三章、二十一節。愛するものよ、我らが心みずから責むるところなくば、神に向いて懼《おそ》れなし……わたくしは、このみ言葉を味わってみましてエ非常に教えられるところがあると思うのであります。現代のクリスチャンは余りに憂鬱であります。神様に対して心やましいところがないならばア、常に快活に明るい生活が出来ると思います。何の憚るところなく自由に行動が出来る筈です。旧約聖書の中にこんな話があります。ダビデが、あのイスラエルの大王のダビデが、神の誓約の箱の前で踊りを踊ったということ。しかも、ダビデ力をつくして踊れり、とあります。ダビデは我を忘れて夢中になって踊ったに違いありません。妻のミルカがこれを見て、大王ともあろうものが踊るなんて何事です、と夫を責めたのですが、ダビデは構わず踊ったのです。わたくしは、ダビデの、この子供に近い神様を怖がらない行動が真当であると思うのであります。神様に対してやましい心をもっていないからこそ踊りも踊れたのです。……」
 寛衣の間へ手を入れてハンカチを取り出すと、牧師はそれを指の先に巻いて、器様に鼻の汗を拭った。へリオトロープの強い香気が会堂に拡がった。
「私の知り人に、最近悪思想に感化せられた学生が居ります。彼は以前私と会って快活に語り、笑いいたして居りましたが、ひと度この思想に捕われるや、最早私と会おうともしません。うつうつと考えこんでばかりいるのです。ダビデの如く快活に踊れよう筈がないのです。神様に懼れを抱いている証拠です。ところが、神様を正面《まとも》に見ることの出来ぬ人が最近次第に増してきました。悪思想が青年諸君を目指してやってくるのです。みなさアん、これは悪霊です。尤もらしい衣をまとったサタンなのです。クリスチャンは神様の御名によって、このサタンと最後迄闘い通さねばなりません。社会からこれを追い払わねばなりません。神様の御言葉に対してあく迄忠実でなければなりません。擢れをもたぬ自由な生活を……」
「畜生! どこで飲んできやがったんだ。やっと金を掴めやア チェッ、茄《ゆ》で蛸《だこ》になって帰ってきやがる……」
「当り前よ。俺アの取った銭は俺アの勝手じゃねえか。二六時中ゲジゲジ野郎の相手がでけるけえ、ヘン 酔ぱらわなきゃ 俺アにはこの世の中が暮していけねえよ……」
「……ま、一辺云ってみな、野郎……」
 ガチャン バタン ガラ ガラ ガラ……
 祭壇の壁一重隣りでは乱闘が始まった。
 居眠っていた信者の一人は、慌てすぎて椅子から滑り落ちた。
「……で、ありますから、みなさアんも、この神様の御言葉をよおく味わって下さるようにお願いいたす次第であります……」
 汗を拭き、咳払いをし、牧師はひそめた眉を忙《せわ》しく伸縮させた。
「献金!」
 前列にいた毬栗《いがぐり》頭が皆の方を向いて野太い声を張りあげた。
 赤い袋の中で銀貨がカチカチ音を立てた。
 再び聖歌、祈り、最後に人々は長い礼拝をして席を立った。
「左様なら牧師様」
「左様なら小母《おば》さん」
 信者達は静粛に、熱意をもって若い牧師に別れを述べ、牧師の背後に並んでいる痩せた老母に向って会釈した。
「ほんとに今日の御話は結構でございました。みなさんも大変熱心に聞いてましたよ」
 人々の去った後、「小母さん」と呼ばれた老母は、窓々のカーテンを引き乍ら牧師を振り返って微笑した。
「……隣りはうるさいんだね。どうしたんだろう。バタバタやって気がひけたよ……」
 牧師は寛衣を脱ぎ終って、小さい鏡に向って髪を撫でつけていた。
「亭主がね、何でも失業しているそうで。まことに当節は不景気でございますからね」
「いくら食うに困るからって、少しはこっちの手前も考えてくれるといいんだよ。あれじゃ信者達に対してみっともないねえ……」
 牧師は、先刻の皺を、再び眉間へ深く刻んだ。

       2

 十三年前だった。
 その当時、夫に死別したお松は、三人の子供を抱えて生活の最低下線上に立っていた。食わない日が幾日も続いた。夜になると、死が誘惑の手を拡げてお松親子を迎いにやってきた。死ぬ機会を見付ける事だけが問題だった。或真夜中、お松は子供達の手を曳いて、宛どもなく街を彷徨《さまよ》った。気力の脱け切った子猫のように、子供達は眼だけ光らせて従順《おとな》しく歩いていた。太い丈夫そうな松の木が逞しい腕を延ばしていた。併し其処迄行くには高い崖があった。レールが白く光っていた。だが汽車は仲々やってこなかった。河淵へ出た。温かい風が吹いていた。青い月の光りが、足元の水を深く見せていた。お松はやっと微笑した。その場所に辿りついた事を悦んだ。彼女の手は無意識に長男を突きとばしていた。
 次に二人の子供を両側に抱えて、彼女自身が飛び込んだ。呼ばれて、眼を開いて、お松は、白い敷布の上にのびのびと寝ていた自分に気が付いた。撥ね上ろうと焦《あせ》った。両側には二人の子供が寝息を立てていた。お松は周囲を眼で探した。やさしい笑皺の中に自分を見守っている眼があった。が、彼女はもう一度廻りを探した。ケン坊は、上の子は一体何処へ行っているんだろう?――
 聖《セント》ヨハネ教会の沢木教父は、慈しみ深い微笑《ほほえみ》で先ずお松親子を安心させた。人手がないから何時迄もいてくれるように、と彼の方から嘆願した。お松は肚《はら》の底から涙をこみ上げさせた。世の中には神様がある、と思った。その日から、お松にとっては、沢木教父は生きたこの世のキリスト様だった。ピンピン凍りつくような二月の或る朝お松は洗礼を行った。水の冷たさが針になって全身を突き刺した。が、お松は声を放って祈りを続けた。
 三日風邪で臥《ふせ》った。洗礼をうけてからは、お松は、自分は、神の子である、と堅く信じるようになった。重い使命を肩の上に感じた。
 教父は説話の度にお松を指差してその再生を祝し、神様の救助と寛大に感謝した。その都度、お松は立ち上って、「神様と教父様の愛」に対して長い祈りをくり返した。信者連の間には動揺があった。教父の美しい行為を讃えないものはなかった。教会の輝ける誇りだと自慢するもの迄出た。彼の神に近い行為に報ゆるため、信者達は特別献金を申し合せた。教父は丁寧に断った。が、結局信者達の熱意に動かされて金を納めた。彼はその日のうちに金を貯蓄銀行へ持っていった。三流新聞は、日曜附録に、再び沢木教父を写真入りで紹介した。彼の善行は三段抜きで紙面の上部に光った。本部からの称讃の言葉と共に金一封が到達した。信者が増した。教父は満足げに頷いた。僧衣の中で、指が算盤《そろばん》をはじいていた。お松達は、一層親切に待遇された。信者達は「小母さん」の存在を聖母の位に迄引き上げた。これは、彼女の夫が貧しい大工であった、という一事が原因していた。併し、心の中でお松は夫を嗤《わら》った。(彼女の知っている範囲では、夫は始終飲んだくれていて、丁半が病みつきで、敗けるときまって彼女を足蹴にするのが癖だった)信者達の親愛は日毎に加わった。そして、お松自身はますます神の御座近く進んだ。世話好きな信者の斡旋で息子はやがてメリヤス工場の見習にやられた。暇を貰って帰ってくる度に、お松は殺した長男を憶って泣いた。あの入水の時、棒杭で強《したた》か脳を打ちつけた娘は、ぼんやり口を開いて、弛んだ視野の中で生きていた、お松は、天なる父の恵みにかけても、此娘の上に奇蹟の現われる事を今か今かと待ちあぐんでいた。
 沢木教父が本部の指令で中央都市の或る聖公会へ栄転したのは、お松にとって悲嘆の極だった。が、彼女の悲しみは、新規な神様の移転して来ると同時に消え去った。此神様は四年程御座に就ていられたが、やがて信者の中の美しい人妻と手に手をとって雲がくれしてしまった。若い小野牧師がきたのは遂一年前だった。彼は、神様のお命じ給う所に依って、お松親子を扶養した。何よりもまず古い正会員達の機嫌を損じる事が彼には恐ろしかったから……。教会で絶対権力のあるのは古い信者達である。教会の維持費牧師の生活費は彼等の掌中にあるのだ。だから信者達がお松に親しんでいれば、牧師としても彼等の申出でを快く承諾しなければならない。小野牧師は信者達の間に確実に信頼を得た。白痴の娘は妹の様に可愛がられた。お松は只管《ひたすら》身の幸福を神様に感謝しなければならなかった。

       3

「おっ母ア、上がってもいいか?」
 台所口からのっそりと肩の広い男が首をのばした。
「おや、欽《きん》じゃないか、暫くこなかったねえ、どうしたんだともって心配してたよ」
「うん、こられなかったんだ、それに――」
 二タ月目の息子の来訪だった。お松はそわそわとそこいらを片付け始めた。
「親に心配させるようなお前じゃないのにねえ、一体、どうしてこられなかったい?」
 お松はまじまじと息子を見た。二タ月の間に、全で別人のように変っている。この髭面、この服装、この無愛想。あの模範職工の几帖面はどこへ失せてしまったろう……。
「工場が忙しいのかい?」
「うん……兼《かね》坊はどうしたい。どこへ行ったんだい?」
「先生のお部屋だろう」
「役者のとこか。おっ母ア、気をつけなくちゃいけねえぜ。兼も十七だからなア――」
「役者って、お前、誰れのことを云うの」
「解ってらア、此処《ここ》の教会《てら》の狐野郎のことよ。祭壇の上で芝居をやる役者だろうじゃねえか。そだろう。おっ母ア」
「ま、何を云うの……」
 お松の唇が細かく慄《ふる》えた。眼が注意深く周囲《あたり》を見廻した。
「お前は、お前は、悪霊に憑《つ》かれているんだ。サタンがお前に云わせるんだね。ね、そうだろう。欽や、早く神様にお赦しを乞いなさい。おお神様、私の愚かな小羊をお赦し下さいませ。貴方のみ力によってこの小さきものから悪霊をお取り払い下さいまし……」
「止めなよ。おっ母ア、狐に向って祈ったところで始まらねえ。狐にア油揚が一番利くのさ、神様なんてありアしねえ。坊主なんて手品師にきまってらア」
「しッ……聞えるよ。お前はまア何ということを。忘れたのかい、神様はお前のお父さんだよ。お前はよもやあの御恩を忘れたのじゃないだろうにね。さ、
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