祈りなさい。救いを求めなさい。詫びて、元のようにみ力におすがり申すんだよ……」
「手品を見ている連中は騙されている内は熱心なんだ。だが、一旦手品の種を掴んだものにア、馬鹿馬鹿しくて奴等のやる事が見ちゃいられねえ。奴等が後へ廻してる手に何を握ってるか調べて見るがいいや。カラクリが判《は》っ切《き》り分らア。全くよ。俺ア、遂《つい》此間《こないだ》迄信者様だった。騙されたのも知らねえで悦んで奴等の手品に見とれていたからなア。だがなおっ母ア、俺ア奴の尻尾を取っ掴えてしまったぜ、組合さ這入《はい》る迄は俺も狐の仲間さ。だけんど、俺ア脳味噌が変ったぜ、世の中の事が表からよりも裏から見れるんだ。判っ切り解らア。そうだ。おっ母ア、お前も眼を開けて、一つ神様の尻尾を掴んでみな。裏から覗いてみな。俺アおっ母アの眼を開けねえじゃおかないからな。……大体手品師と一緒に暮らしてるのが間違ってるよ」
一語一語を叩くように述べる欽二を、お松は只|呆然《ぼうぜん》と胸に十字を切った儘聞いていた。
「アーメン、アーメン……」
廊下を、白痴の娘が叫んでいる。
「兼来う。何だお前白粉なんざ塗るんじゃねえよ。アーメンとこさ行っちゃいかねえ。いいか。兄《あん》ちゃんが今に専門の医者にかけて必ず快《よく》してやるからな。いいか、兼、アーメンとこさ行くんじゃねえよ。……おっ母ア、お前の小使い置いていくよ。俺ア急ぐから帰るぜじゃ又な――」
来た時と同じ様に、のっそりと音も立てずに欽二は出て行った。
4
夏になると毎夜の如く到るところで路傍説教が始まった。
聖ヨハネ教会もその例に洩れず、信者達は三班に分れてビラを配り乍ら街をねった。今年は特別の熱意をもって、信者達は寧ろ強制的に聴衆を勧誘した。ひどく真剣だった。この熱誠は、彼等の信仰からよりも、より直接的な他の原因をもっていた。日曜の度に、牧師が、キリスト教普及の運動を、それが現代に於ける信者達の早急の任務であることを、熱涙をもって愬《うった》えるからであった。この牧師の異状な迄に真摯な態度がひどく信者達を動かしたのであった。
「牧師様は普及運動に御熱心でいられますな」
「ほんに結構なことでございますよ」
信者の物問い度げな口吻《くちぶり》に対して、お松は何時もきまってこう返答していた。
だが、こんな事実を彼女は知っている。
確実な正会員の一人である陶器会社の社長の息子が足繁く訪ねて来たこと。彼は何事かを低声に頼みこみ、牧師はそれを承諾した事。
教会へ寄附の名目で相当のまとまった金を彼が受取っている事。その日から態度が一変して普及運動が喧しく喋られた事等を。
牧師自身多忙をきわめ、内密で工場へ出かけて説教をしてくる事も度々だった。
併し、お松にはすべてが没交渉なことだった。彼女は他の信者達と等しく、只熱心に伝導説教に骨折っていた。神様のおやり遊ばす事は何事にかかわらず間違いのあろう道理がない。
十時が疾《と》っくに過ぎて、その夜の勤めを終ったお松は信者達と途中別れて暗い路地を曲って帰っていった。一人っ切りになると、先達の欽二の言葉がキリキリ胸につき上ってくる。だが、お松はそれを憶い出す度に十字を切ってキリスト様のみ名によって気持ちを柔らげ様と焦った。すっかり封印をしてしまった筈のあの言葉が何だって飛び出て私の前を往来し始めるんだろう。……お松は腹立たしい好奇でそれをチョッピリ噛んでみた。が、直ぐ彼女はそれを吐き出して再び十字を切り、今度は出て来れない様に重しをのせた。併し、それでもあの言葉がひっきりなしにお松の頭を通過する。……
腹を害《そこ》ねて臥っている牧師を案じて、お松は気忙《きぜわ》しかった。近道をして家の前へ出てみると消燈して、窓は黒く寂しい。お松はドアを押した。みんな寝てしまったのかと思った。会堂で物音がした。牧師様が夜のお祈りをあげているのだな、で、お松は、み心を掻き乱さないようにと、足音を忍ばせて廊下を歩いた。
バタン、椅子の倒れる大きな音がした。
忍び笑いと、それを叱る低声が伝わってきた。床板がキシキシ鳴った。壁にぶつかる音と、それを追う白い影が夢の様に通っていった。むせるような笑声とそれを圧しつける声が稍々《やや》高く響いた。
「ハハハハ、もっとこっち来う。アーメンもっとこっち来う。痛い痛い。アーメン」
お松は、黒い血が頭のてっぺんからドクドクと吹き出るような気がした。胸がキリキリ圧迫されて、今にも呼吸が止まりそうに思った。冷やっこい汗が額を流れた。
「……兼じゃないか。何してンのか?」
「おっ母ア、ハハハ、アーメンが、アーメンが……ハハハハ……」
母親を目掛けて、獣の様に飛んできた。腰巻一枚の素裸だった。
「アーメン、来う、アーメン……」
「何処へ逃げ込んだんだろう。お松さんかね?……今ね、鼠が……」
スイッチを探すお松の手に、男の裸な胸が触れた。彼女は二三歩跳び退いた。
「電燈つけちゃ駄目だ。鼠が逃げてしまうからね。折角此処迄追いこんだんだ。確かこの中だな。素手で捕えてみせるよ。いいか。兼ちやん余り騒ぐもんだから逃げちゃったかしら……」
闇の中で男の身繕《みづくろい》が際立ってザワついた。声が縺《もつ》れて慄えている。
「アーメン、来うよ。来うって……」
白い腕が無気味に動いて男を探し求めた。
「兼! さ、行こう、来うよ。」
お松は娘の躯《からだ》を抱えるように曳きずって行った。
「そうだ。寝た方がいいんだ。僕が余りバタバタやったもんで起き出してきたんだ。それはそうと、お松さん、今夜の伝導説教はどうだったね。集りはよかったですかね?」
妙に嗄《しわが》れた高い声が、会堂の中からお松を追い駈けてきた。
「……はい、万事都合よく、みな様は先生の御病気を案じ申していられました……」
鼻の先きへ熱いものが突き上ってきた。
お松は静脈の突起した手を胸へ置いた儘、明方迄祈りを続けていた。
5
眼の鋭い、禿鷲《はげわし》のような男が訪ねてきて、欽二の行動について、お松の知ってる限りを鑿《のみ》のような舌の先きでほじくっていった。
男が帰った後で、蔭で立ち聞きしていたらしい牧師は、眉間へ露骨な縦皺を寄せて、お松を白く睨んだ。
「欽二君もとんだいい所とかかり合いを持ってるね。あれでも模範職工かね。ところで、ああいう男が教会へ出入りしたとなると、信者間でも問題が起る。引いては教会の名誉にもかかわる至極迷惑な話だ。お松さん、これは何とかして貰わなければ……とかく、白い壁に付く泥は目立ち易いからねえ――」
厭な言葉がピシャピシャお松の頬を叩いた。
――欽二に限って間違いのあろう筈がないが。だが、この間来た時の口のききようじや、万一そんな事でもあったら……
併し、お松にとっては、この際息子に対する危惧の念よりも、牧師の何時もと違う不当な態度が何よりも肚にこたえた。
あの夜以来の落ちつかない彼の行動、自分達親子を不快視するその瞳、穏和そのものだった神様が、急激に粗暴になったこの変化を、お松はそこへ触れ度くないような気味のわるい原因と結びつけて、極力それを否定してはいても、時折り不意な恐怖がやってきて、彼女をおびやかす。いや、神聖な教会で間違いのあろう訳がない。みな自分の邪推なんだ。神様がよもや、神様は正しい事だけしかしないにきまっている。……で、お松は、牧師の不機嫌な他の原因を探そうと焦せる。そして、それは息子の欽二の一身に関しているんだ、と結末をつける。
ともかく、お松は欽二に逢って話を確めようと家を出た。
裏門は五六人の職工達で固まっていた。傾きかけた塀の中にはギッチリ黒い頭が詰っていた。誰れかが黒い腕を振り上げて怒鳴っていた。ウォッと、怒濤のような地響きが起った。バンバン手が叩かれた。お松は先ずこの光景に愕かされた。目脂《めやに》を拭って、再び見直した。耳にまつわる毛を払いのけて、男が何を云ってるのかを聞こうと焦った。腰を伸ばして塀に掴まった。
「遠山欽二に逢われんですかい?」
やっと、職工の一人に問いかけた。
「遠山? 欽二?……ああ、第二工場の兄貴だ。そうだな、今忙しいが、まア、行ってみよう。お前さんは誰れだい?え、おっ母アさんかい」
若い職工は、威勢よく飛んで行った。
「何しろね、この通り今が真最中なもんだから……。おっ母アさん、こっちへ這入って待ってて下せえ」
長身な職工は、往来にぽんやり立っているお松を自分の横の空地へ誘った。
「この騒ぎは一体どうしたというんです。喧嘩ですかい?」
自分を「おっ母アさん」と呼ぶこの男の親し気な口調が、お松を知らず知らず彼へ近づかせていた。
どッと喚声が上って、続いて足踏みと拍手が起った。叩きつけるような幅ったい声が後で叫んでいる。
「昨日からストライキでさア。今度という今度は俺アの主張を通さずにアおかねえ。奴等の手になんか乗るもンか。打のめして……」
「お、よく来たな、おっ母ア、どうしたんだい?」
汗でギラギラ光った顔が忙しなく呼吸をくり返した。
「俺アの言葉おとなしく入れてくれて、矢張りあの狐穴を出る気になったか?」
「……警察から人が来てな、お前のことを根掘り葉掘り訊くもんだから、それでな……」
「何だ! そんなことか、犬なんか、勝手に糞でも嗅がしておけアいいんだ。……俺アまた、おっ母アが分別つけてやってきてくれたものと思っていた……」
口元に浮いていた微笑が消えて、欽二はやけに爪先きで土を蹴った。
「神様のおめぐみは深いよ、そんな……」
「未だそんなこと云ってる。今に、そうだ、今に、奴等がだらしなく下げている尻尾を掴んだ時、その時だ。おっ母アの眼が開くなア、奴等を注意してみるんだ。な。尻尾を握るんだ。……今日は帰れよ。俺アとても忙しいんだ。おっ母アの坊主臭え香いを洗い落してからやってきなよ」
欽二は、母親の小さい肩を手で軽く叩いた。
「体を丈夫にしなよ」
お松は変に泪《なみだ》っぽくなり乍ら、後をも見ずに歩き出していた。
ワアッ 塀の中では喚声がかち合っていた。
6
この一週間以来、げっそり瘠せて碌に飯も食わないでゴロゴロしていた白痴の娘は、とうとう床についたその夜、激しい腹痛を泣き喚き乍ら母親に訴えた。真夜中になって、彼女は黒っぽい液体を何回も吐いた。便所へ行く度にひどい出血をした。悲痛な声を放って救いを求めた。お松は、娘を抱え、起し、寝かしつけ、彼女自身血まみれになって介抱した。
この騒ぎに、隣室の牧師は起き出してこようともしない。だが、お松は寧ろ彼の存在を忘れて夢中になっていた。
眼を擦《こす》り擦りやっと医者がやってきた。
帰りぎわに、彼は難かしい皺の中から囁いていった。
「僕《わし》は専門じゃないから判っ切り云えんがな、娘さんは飛んでもないことを仕出かしとる、立派に妊娠していられたものを堕胎剤を飲んでいるらしいて。これは恐しいことだ。全くもって。誰れか専門のお方に診察してもらわんとな。早くですぞ。早くな……」
老医師は、臆病な鼠のように性急に逃げていった。
大きな金槌で、ガアンと頭のてっぺんをどやされた形だった。
胸の中を真紅な焔が燃えた。眼の前が一様に白っぽい布で覆われた。何も分らない。何も彼もだ……
だが、やがて一条の冷水が彼女の昂奮の中を下っていった。
「兼、兼坊、お前は一体何をやったんだい。おっ母アにみんな云ってみな。な、云ってみな……」
白眼を出した儘、娘は微笑した。
「な、兼、云ってみな。どうして……」
「……アーメンだい。アーメン……」
不意にひどい苦悶の中から、娘は人差指を振りあげて隣室を指した。泣き笑いがその後に続いた。
「……先生かい。兼、アーメンかい」
喉に黒い固りが閊《つか》えた。
「矢張りだ。野郎、矢張りだ。こんな事をして、こんな……」
白く乾いた唇がカサカサ慄えた。老人の眼は火になって輝いた。指が虚空を掴んだ。
「狐だ! 狐だ! 狐だ!」
お松の足が襖《ふす
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