きて、彼女をおびやかす。いや、神聖な教会で間違いのあろう訳がない。みな自分の邪推なんだ。神様がよもや、神様は正しい事だけしかしないにきまっている。……で、お松は、牧師の不機嫌な他の原因を探そうと焦せる。そして、それは息子の欽二の一身に関しているんだ、と結末をつける。
 ともかく、お松は欽二に逢って話を確めようと家を出た。

 裏門は五六人の職工達で固まっていた。傾きかけた塀の中にはギッチリ黒い頭が詰っていた。誰れかが黒い腕を振り上げて怒鳴っていた。ウォッと、怒濤のような地響きが起った。バンバン手が叩かれた。お松は先ずこの光景に愕かされた。目脂《めやに》を拭って、再び見直した。耳にまつわる毛を払いのけて、男が何を云ってるのかを聞こうと焦った。腰を伸ばして塀に掴まった。
「遠山欽二に逢われんですかい?」
 やっと、職工の一人に問いかけた。
「遠山? 欽二?……ああ、第二工場の兄貴だ。そうだな、今忙しいが、まア、行ってみよう。お前さんは誰れだい?え、おっ母アさんかい」
 若い職工は、威勢よく飛んで行った。
「何しろね、この通り今が真最中なもんだから……。おっ母アさん、こっちへ這入って待ってて下せえ」
 長身な職工は、往来にぽんやり立っているお松を自分の横の空地へ誘った。
「この騒ぎは一体どうしたというんです。喧嘩ですかい?」
 自分を「おっ母アさん」と呼ぶこの男の親し気な口調が、お松を知らず知らず彼へ近づかせていた。
 どッと喚声が上って、続いて足踏みと拍手が起った。叩きつけるような幅ったい声が後で叫んでいる。
「昨日からストライキでさア。今度という今度は俺アの主張を通さずにアおかねえ。奴等の手になんか乗るもンか。打のめして……」
「お、よく来たな、おっ母ア、どうしたんだい?」
 汗でギラギラ光った顔が忙しなく呼吸をくり返した。
「俺アの言葉おとなしく入れてくれて、矢張りあの狐穴を出る気になったか?」
「……警察から人が来てな、お前のことを根掘り葉掘り訊くもんだから、それでな……」
「何だ! そんなことか、犬なんか、勝手に糞でも嗅がしておけアいいんだ。……俺アまた、おっ母アが分別つけてやってきてくれたものと思っていた……」
 口元に浮いていた微笑が消えて、欽二はやけに爪先きで土を蹴った。
「神様のおめぐみは深いよ、そんな……」
「未だそんなこと云ってる。今に、そうだ、今に、奴等がだらしなく下げている尻尾を掴んだ時、その時だ。おっ母アの眼が開くなア、奴等を注意してみるんだ。な。尻尾を握るんだ。……今日は帰れよ。俺アとても忙しいんだ。おっ母アの坊主臭え香いを洗い落してからやってきなよ」
 欽二は、母親の小さい肩を手で軽く叩いた。
「体を丈夫にしなよ」
 お松は変に泪《なみだ》っぽくなり乍ら、後をも見ずに歩き出していた。
 ワアッ 塀の中では喚声がかち合っていた。

       6

 この一週間以来、げっそり瘠せて碌に飯も食わないでゴロゴロしていた白痴の娘は、とうとう床についたその夜、激しい腹痛を泣き喚き乍ら母親に訴えた。真夜中になって、彼女は黒っぽい液体を何回も吐いた。便所へ行く度にひどい出血をした。悲痛な声を放って救いを求めた。お松は、娘を抱え、起し、寝かしつけ、彼女自身血まみれになって介抱した。
 この騒ぎに、隣室の牧師は起き出してこようともしない。だが、お松は寧ろ彼の存在を忘れて夢中になっていた。
 眼を擦《こす》り擦りやっと医者がやってきた。
 帰りぎわに、彼は難かしい皺の中から囁いていった。
「僕《わし》は専門じゃないから判っ切り云えんがな、娘さんは飛んでもないことを仕出かしとる、立派に妊娠していられたものを堕胎剤を飲んでいるらしいて。これは恐しいことだ。全くもって。誰れか専門のお方に診察してもらわんとな。早くですぞ。早くな……」
 老医師は、臆病な鼠のように性急に逃げていった。
 大きな金槌で、ガアンと頭のてっぺんをどやされた形だった。
 胸の中を真紅な焔が燃えた。眼の前が一様に白っぽい布で覆われた。何も分らない。何も彼もだ……
 だが、やがて一条の冷水が彼女の昂奮の中を下っていった。
「兼、兼坊、お前は一体何をやったんだい。おっ母アにみんな云ってみな。な、云ってみな……」
 白眼を出した儘、娘は微笑した。
「な、兼、云ってみな。どうして……」
「……アーメンだい。アーメン……」
 不意にひどい苦悶の中から、娘は人差指を振りあげて隣室を指した。泣き笑いがその後に続いた。
「……先生かい。兼、アーメンかい」
喉に黒い固りが閊《つか》えた。
「矢張りだ。野郎、矢張りだ。こんな事をして、こんな……」
 白く乾いた唇がカサカサ慄えた。老人の眼は火になって輝いた。指が虚空を掴んだ。
「狐だ! 狐だ! 狐だ!」
 お松の足が襖《ふす
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