な正会員の一人である陶器会社の社長の息子が足繁く訪ねて来たこと。彼は何事かを低声に頼みこみ、牧師はそれを承諾した事。
 教会へ寄附の名目で相当のまとまった金を彼が受取っている事。その日から態度が一変して普及運動が喧しく喋られた事等を。
 牧師自身多忙をきわめ、内密で工場へ出かけて説教をしてくる事も度々だった。
 併し、お松にはすべてが没交渉なことだった。彼女は他の信者達と等しく、只熱心に伝導説教に骨折っていた。神様のおやり遊ばす事は何事にかかわらず間違いのあろう道理がない。
 十時が疾《と》っくに過ぎて、その夜の勤めを終ったお松は信者達と途中別れて暗い路地を曲って帰っていった。一人っ切りになると、先達の欽二の言葉がキリキリ胸につき上ってくる。だが、お松はそれを憶い出す度に十字を切ってキリスト様のみ名によって気持ちを柔らげ様と焦った。すっかり封印をしてしまった筈のあの言葉が何だって飛び出て私の前を往来し始めるんだろう。……お松は腹立たしい好奇でそれをチョッピリ噛んでみた。が、直ぐ彼女はそれを吐き出して再び十字を切り、今度は出て来れない様に重しをのせた。併し、それでもあの言葉がひっきりなしにお松の頭を通過する。……
 腹を害《そこ》ねて臥っている牧師を案じて、お松は気忙《きぜわ》しかった。近道をして家の前へ出てみると消燈して、窓は黒く寂しい。お松はドアを押した。みんな寝てしまったのかと思った。会堂で物音がした。牧師様が夜のお祈りをあげているのだな、で、お松は、み心を掻き乱さないようにと、足音を忍ばせて廊下を歩いた。
 バタン、椅子の倒れる大きな音がした。
 忍び笑いと、それを叱る低声が伝わってきた。床板がキシキシ鳴った。壁にぶつかる音と、それを追う白い影が夢の様に通っていった。むせるような笑声とそれを圧しつける声が稍々《やや》高く響いた。
「ハハハハ、もっとこっち来う。アーメンもっとこっち来う。痛い痛い。アーメン」
 お松は、黒い血が頭のてっぺんからドクドクと吹き出るような気がした。胸がキリキリ圧迫されて、今にも呼吸が止まりそうに思った。冷やっこい汗が額を流れた。
「……兼じゃないか。何してンのか?」
「おっ母ア、ハハハ、アーメンが、アーメンが……ハハハハ……」
 母親を目掛けて、獣の様に飛んできた。腰巻一枚の素裸だった。
「アーメン、来う、アーメン……」
「何処へ逃げ込んだんだろう。お松さんかね?……今ね、鼠が……」
 スイッチを探すお松の手に、男の裸な胸が触れた。彼女は二三歩跳び退いた。
「電燈つけちゃ駄目だ。鼠が逃げてしまうからね。折角此処迄追いこんだんだ。確かこの中だな。素手で捕えてみせるよ。いいか。兼ちやん余り騒ぐもんだから逃げちゃったかしら……」
 闇の中で男の身繕《みづくろい》が際立ってザワついた。声が縺《もつ》れて慄えている。
「アーメン、来うよ。来うって……」
 白い腕が無気味に動いて男を探し求めた。
「兼! さ、行こう、来うよ。」
 お松は娘の躯《からだ》を抱えるように曳きずって行った。
「そうだ。寝た方がいいんだ。僕が余りバタバタやったもんで起き出してきたんだ。それはそうと、お松さん、今夜の伝導説教はどうだったね。集りはよかったですかね?」
 妙に嗄《しわが》れた高い声が、会堂の中からお松を追い駈けてきた。
「……はい、万事都合よく、みな様は先生の御病気を案じ申していられました……」
 鼻の先きへ熱いものが突き上ってきた。
 お松は静脈の突起した手を胸へ置いた儘、明方迄祈りを続けていた。

       5

 眼の鋭い、禿鷲《はげわし》のような男が訪ねてきて、欽二の行動について、お松の知ってる限りを鑿《のみ》のような舌の先きでほじくっていった。
 男が帰った後で、蔭で立ち聞きしていたらしい牧師は、眉間へ露骨な縦皺を寄せて、お松を白く睨んだ。
「欽二君もとんだいい所とかかり合いを持ってるね。あれでも模範職工かね。ところで、ああいう男が教会へ出入りしたとなると、信者間でも問題が起る。引いては教会の名誉にもかかわる至極迷惑な話だ。お松さん、これは何とかして貰わなければ……とかく、白い壁に付く泥は目立ち易いからねえ――」
 厭な言葉がピシャピシャお松の頬を叩いた。
 ――欽二に限って間違いのあろう筈がないが。だが、この間来た時の口のききようじや、万一そんな事でもあったら……
 併し、お松にとっては、この際息子に対する危惧の念よりも、牧師の何時もと違う不当な態度が何よりも肚にこたえた。
 あの夜以来の落ちつかない彼の行動、自分達親子を不快視するその瞳、穏和そのものだった神様が、急激に粗暴になったこの変化を、お松はそこへ触れ度くないような気味のわるい原因と結びつけて、極力それを否定してはいても、時折り不意な恐怖がやって
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