から涙をこみ上げさせた。世の中には神様がある、と思った。その日から、お松にとっては、沢木教父は生きたこの世のキリスト様だった。ピンピン凍りつくような二月の或る朝お松は洗礼を行った。水の冷たさが針になって全身を突き刺した。が、お松は声を放って祈りを続けた。
 三日風邪で臥《ふせ》った。洗礼をうけてからは、お松は、自分は、神の子である、と堅く信じるようになった。重い使命を肩の上に感じた。
 教父は説話の度にお松を指差してその再生を祝し、神様の救助と寛大に感謝した。その都度、お松は立ち上って、「神様と教父様の愛」に対して長い祈りをくり返した。信者連の間には動揺があった。教父の美しい行為を讃えないものはなかった。教会の輝ける誇りだと自慢するもの迄出た。彼の神に近い行為に報ゆるため、信者達は特別献金を申し合せた。教父は丁寧に断った。が、結局信者達の熱意に動かされて金を納めた。彼はその日のうちに金を貯蓄銀行へ持っていった。三流新聞は、日曜附録に、再び沢木教父を写真入りで紹介した。彼の善行は三段抜きで紙面の上部に光った。本部からの称讃の言葉と共に金一封が到達した。信者が増した。教父は満足げに頷いた。僧衣の中で、指が算盤《そろばん》をはじいていた。お松達は、一層親切に待遇された。信者達は「小母さん」の存在を聖母の位に迄引き上げた。これは、彼女の夫が貧しい大工であった、という一事が原因していた。併し、心の中でお松は夫を嗤《わら》った。(彼女の知っている範囲では、夫は始終飲んだくれていて、丁半が病みつきで、敗けるときまって彼女を足蹴にするのが癖だった)信者達の親愛は日毎に加わった。そして、お松自身はますます神の御座近く進んだ。世話好きな信者の斡旋で息子はやがてメリヤス工場の見習にやられた。暇を貰って帰ってくる度に、お松は殺した長男を憶って泣いた。あの入水の時、棒杭で強《したた》か脳を打ちつけた娘は、ぼんやり口を開いて、弛んだ視野の中で生きていた、お松は、天なる父の恵みにかけても、此娘の上に奇蹟の現われる事を今か今かと待ちあぐんでいた。
 沢木教父が本部の指令で中央都市の或る聖公会へ栄転したのは、お松にとって悲嘆の極だった。が、彼女の悲しみは、新規な神様の移転して来ると同時に消え去った。此神様は四年程御座に就ていられたが、やがて信者の中の美しい人妻と手に手をとって雲がくれしてしまった。若
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