い小野牧師がきたのは遂一年前だった。彼は、神様のお命じ給う所に依って、お松親子を扶養した。何よりもまず古い正会員達の機嫌を損じる事が彼には恐ろしかったから……。教会で絶対権力のあるのは古い信者達である。教会の維持費牧師の生活費は彼等の掌中にあるのだ。だから信者達がお松に親しんでいれば、牧師としても彼等の申出でを快く承諾しなければならない。小野牧師は信者達の間に確実に信頼を得た。白痴の娘は妹の様に可愛がられた。お松は只管《ひたすら》身の幸福を神様に感謝しなければならなかった。
3
「おっ母ア、上がってもいいか?」
台所口からのっそりと肩の広い男が首をのばした。
「おや、欽《きん》じゃないか、暫くこなかったねえ、どうしたんだともって心配してたよ」
「うん、こられなかったんだ、それに――」
二タ月目の息子の来訪だった。お松はそわそわとそこいらを片付け始めた。
「親に心配させるようなお前じゃないのにねえ、一体、どうしてこられなかったい?」
お松はまじまじと息子を見た。二タ月の間に、全で別人のように変っている。この髭面、この服装、この無愛想。あの模範職工の几帖面はどこへ失せてしまったろう……。
「工場が忙しいのかい?」
「うん……兼《かね》坊はどうしたい。どこへ行ったんだい?」
「先生のお部屋だろう」
「役者のとこか。おっ母ア、気をつけなくちゃいけねえぜ。兼も十七だからなア――」
「役者って、お前、誰れのことを云うの」
「解ってらア、此処《ここ》の教会《てら》の狐野郎のことよ。祭壇の上で芝居をやる役者だろうじゃねえか。そだろう。おっ母ア」
「ま、何を云うの……」
お松の唇が細かく慄《ふる》えた。眼が注意深く周囲《あたり》を見廻した。
「お前は、お前は、悪霊に憑《つ》かれているんだ。サタンがお前に云わせるんだね。ね、そうだろう。欽や、早く神様にお赦しを乞いなさい。おお神様、私の愚かな小羊をお赦し下さいませ。貴方のみ力によってこの小さきものから悪霊をお取り払い下さいまし……」
「止めなよ。おっ母ア、狐に向って祈ったところで始まらねえ。狐にア油揚が一番利くのさ、神様なんてありアしねえ。坊主なんて手品師にきまってらア」
「しッ……聞えるよ。お前はまア何ということを。忘れたのかい、神様はお前のお父さんだよ。お前はよもやあの御恩を忘れたのじゃないだろうにね。さ、
前へ
次へ
全12ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
矢田 津世子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング